「お万茶屋物語」魚沼街道(柏崎-小千谷)茶屋の幕末から明治の移り変わり2戊辰戦争

第1話 「お万茶屋物語」魚沼街道(柏崎-小千谷)美人の茶屋の幕末から明治の移り変わり

その後

北越雪譜の続編最後の4巻を発行した翌1842年に鈴木牧之さんは72歳で亡くなった。でも牧之さんは多くの想いを残すことに成功した。
その年から26年になる。
広田峠の茶屋は於万が営業を続けておりいつの間にかお万茶屋と呼ばれていた。於万はすっかりおかあさんに、中年となり、今では次男の清次郎12歳と共に茶屋を切り盛りしている。
子供は長女長男、そしてそして次男清次郎と3人に恵まれた。子供達には牧之さんから頂いた全7巻を読ませてきた。
魚沼の塩沢辺りの雪国のお話しの他に塚野山や袴沢近辺の渋海川や塚山峠の話もあり精次郎も興味深く読んでいた。

牧之さんの店の手代正三はすっかり偉くなって今では得意先への挨拶で年に2回茶屋の前を通るだけ、その時には必ずお茶と漬物を楽しんでくれたが寂しいもの。
しかし、また新しい五助という若者がいて、これが清次郎と1つ違いで峠を通るたびに仲良くさせてもらっていた。

清次郎は牧之さんの影響か五助から上方や江戸の話を聞くのが好きだった、最近は上方で戦があって長州が薩摩や会津に敗れて逃げていったことなどを聞いた。
その後もいろいろ話を聞いたがそれによると「京で天子様を守っているのが小千谷に陣屋を置く会津藩と柏崎に陣屋を置く桑名藩さ、だからこの街道は何があっても大丈夫。幕府も朝廷も味方さ。あっ、そうそうそこの長岡藩も会津や桑名と一緒に京都で天子様を守っているよ」

小千谷も柏崎も重要な働きをしているらしい。ここ塚野山のあたりは羽前(山形県)上山藩の領地、同じく幕府の重要地の警備をしている、小さな藩だが会津や柏崎の仲間だ。つまり街道においては争いは起きない。

峠は様々な人が通る。

清次郎が居ない時だったが長岡藩の偉い役人が通って行ったらしい。

高柳の山中集落の騒動の解決に行ってきたようで帰りにこの峠を通り茶屋で一服して尋ねたという「この峠はなだらかで良いの、だから車で荷物も運べるの、春は雪融けも早いのか」というので「へえ、ここらで一番早い雪融けですて」と答えておいたよ。なんか知らんがそれを帳面に書いてたよ、不思議なお役人様だったて。長谷川家の人に聞いたら「ああ、あれは家老の河井様らね、長岡藩を改革した偉い人だて。」とのこと。

またある時、店の番をしているとなじみの旅人がやってきて
「また、戦になるかもしれねーぞ」と驚きの話を聞いた。
京では会津藩と桑名藩が幕府と共に朝敵となって薩長土肥などの勢力と戦っているらしい。
ひえ~この街道の両端が朝敵?
と思いつつも幕府側が負けるなどありえない話で、上方からの最新情報とだけとらえていた。
そのすぐ後また別の旅人、小千谷の行商に聞くと
「何でも幕府が負けているらしいぞ。将軍の慶喜様は船で江戸に逃げたらしい。」
と驚愕の話。いったいどうなっているんだ。清次郎には事態が理解できない。

そう言う話をきいて数日後、広田の方から馬と籠の数十人のお侍が通って行った。
途中茶屋で籠の中の人が一休みしてお茶を飲んだ。
お侍さん達は名乗りもせず黙っていたが柏崎の桑名藩の一行だということは家紋を見ればわかった。
後で聞いた事だがお茶を飲んで行ったのはどうやら桑名のお殿様らしい。
西軍への徹底抗戦派と西軍従順派に藩内が割れたが殿様の抗戦派が敗れて、なんと殿様が自分の藩から逃げ出したらしい。本領の桑名から逃げ、柏崎からも逃げたことになる。何と言うことが起きているのか。塚野山から先は解らないが兄がいる会津方面へ向かったのではないかとの事、会津公と桑名公は兄弟らしい。

ある朝、遠くからバンバンという音が聞こえた。
銃声だ。街道を少し外れると柏崎方面が見える峰がある。
「見に行くて」清一郎は母を一人茶屋に残し、峰に様子を見に行った。
着いてみると既に菅沼や袴沢の大人が数人来ていた。
「柏崎け?」
「いいや解らん、見えね。鯨波か米山の方かも知らんで」
「桑名藩は恭順じゃなかったがけ」
「いや、殿様が逃げた後。抗戦派が勝ったらしい」
そうしているうちにドコンと大きな音が聞こえた。
「ありゃ、大砲らろ」

長谷川様の人がいつの間にか来ていてそう言った。
「西軍は豪儀な大砲もっているらしいすけ、ありゃ西軍だて」
「西軍が優勢のがらけ。」
「わからんの、桑名藩も良い武器持っているし」
そのうち煙が上がるのが見えた。
あのあたりは鯨波だの。家が燃やされとる。
撃ち合う音は広範囲になってきたように見える。
「こら大いくさだの」
鉄砲と大砲の音は夕方まで続いた。
やがて一団が柏崎の平野部に逃げてきてさらにこちらに向かっている。
「どうやら桑名が負けたようじゃの」
「これから峠に大勢来るぞ、皆家に帰って気をつけていろよ」
精一郎は急いで茶屋に帰った。

桑名藩は茶屋に見向きもせずに急いで広田峠を越えて塚野山も通り過ぎてどこかに行った。やはり会津方面だろう。

それからすぐに塚野山宿には東軍側の衝鉾隊が大勢宿泊して小千谷方面に向かったらしい。魚沼街道は日に日に物騒になった。
そして今度は会津の兵が塚野山に入り翌朝小千谷との境の薬師峠へ向かい戦った。しかし敗れて再び塚野山に戻ると西軍に利用されぬようにと集落に火をつけて更に敗走していった。戦の習いとはいえ味方した集落に火を放ち数軒が燃えた、お万茶屋からも銃声が聞こえ火事の煙も見えた。

まさに戊辰戦争の真っただ中に魚沼街道は置かれていた。

その後は薬師峠で勝った西軍が塚野山に乗り込んで来たが全戸が戸を開けて迎えたという、周辺の集落も一様にそうしたものと思われる。

渋海川下流で捕まった会津兵が一人首をはねられ塚野山で晒された。

西軍は厳しい裁定を各地で行ったが、越後の民は両軍兵士を敬った。片貝の浄照寺では両軍の兵を弔った。これはかなり勇気と信念が居ることだった。小千谷でも同様だった。親鸞・日蓮ゆかりの越後・佐渡。死者に優しかった。

街道は西軍が兵を要所に兵を置いた。魚沼街道は西軍が制圧した。

お万茶屋では街道周辺に協力を得て広田峠に配置された西軍兵士に飯や水を提供した。

街道中が緊張に包まれていたある日
柏崎の西軍が魚沼街道の二つの峠、広田峠と薬師峠を越える為の人足の供出命令が下りてきた。
新政府初の徴税とも言える、塚野山他三島郡内、そして刈羽郡の小国や北条地域の集落から動員された。(越路町史小国町史北条町史にはその事について、何々村の誰、とか名前が全て記録され、馬などの頭数も記録されている。税としてキチンと記録されたのではないかと思えるが、あの時代において細密に記録される公文書が田舎にもあることに驚きである。)

多くの人足が荷物を運び、山県有朋等長州藩のほか各藩の大勢が通って行った
山県は峠に入る前に北条の佐橋神社に参拝・寄進し、勝利を祈願したらしいという話も聞いた。

「毛利のご先祖様、そして大江広元様、子孫が今度は朝廷に幕府をお返しする戦いで参りました…」

源頼朝と共に幕府を立ち上げたのは毛利家の始祖大江広元である。毛利家は宝治合戦で敗れ一族滅亡の危機にここ越後の佐橋荘で生き残った毛利が西国に渡り毛利元就・今日の長州藩のもとになった。

佐橋は毛利の先祖の地である、神社に寄る寄らないは別としてその地に数百年の時を経て毛利が旧佐橋庄帰ってきたことには変わりはない。行軍する山県有朋、そしてその後に柏崎に入る西軍大将西郷吉之助(隆盛)のも先祖の地越後の強兵に遠い過去を思いめぐらしたのではないか。

西郷吉之助は、会津藩の領地が多く桑名藩領地の半分がある越後、新潟港という貿易港も有り、なお且つ庄内藩の出羽の隣りに位置する越後を戊申戦争の最重要地と考えたはず、薩摩から船で直接柏崎に入った。柏崎に入った西郷吉之助にはもう一つ思い浮べる昔があった。江戸幕府の勝海舟の事である。

ある日お万茶屋に見知らぬ武士がやって来た。「勝家の祖先がこの辺りと聞くが知らぬか?」どうやら幕臣勝海舟の先祖の家を探しに来たようである。
「あの米山検校さんのとこじゃないかい?」

於万は長鳥の按摩が出世して江戸に行って子孫が武士になった話を聞いた事があった。
「この峠をそっちに降りて行くと東長鳥、その付近だと思いますが。…」

武士の家紋は薩摩藩のものであった。何故薩摩が幕臣の祖先の地を探すのか…西郷様と勝様は何か関係があるのか、薩摩の使者は果たして祖先の地にたどり着いたか。

「柏崎に西郷が来ているらしいぞ」清次郎は塚野山で聞いて袴沢の仲間と「すげーな西軍の大将が柏崎だってよ」と驚いていた。

昔で言えば家康様が戦に来たようなもの、越後ってそんなヤバいとこなの?

清次郎と仲間の塚野山や袴沢の若者は興奮して柏崎に西郷を見に行こうかという無謀な冒険話も出たが長岡城落城の報せが来て取りやめた。

長岡周辺の戦は激しくなっていて病院ができた柏崎への往来も激しくなっている。長岡城を東軍が奪還したり再度西軍が落したりと聞いた事が無いような戦いが繰り広げられていた。

ある日、荷車に乗せられた怪我人が通って行った。幾人も付き人が居たので清次郎の印象に残った。

何年も後に知ったことだがそれは西郷の弟吉二郎であり、介護もかなわずに柏崎で亡くなったという。

柏崎に西郷様が居ることで魚沼街道は多くの偉い人たちが行き交った。

やがて長岡周辺の戦が治まると西郷様は船で新潟に行ったらしい。

魚沼街道は元の商いの道に戻った。

魚沼街道、お万茶屋には戊辰戦争の多くの人達が関わっていたのである。

それから与板県が出来たり柏崎県が出来たり、新潟県に落ち着いたり…。

これから僅か30年後には、街道や宿場町には死活の鉄道建設の騒動が始まるのですが、それはまた今度…

 

参考文献:塚野山の歴史ほか