小千谷港跡や湯殿川沿いの旧中心街を見て廻った時にお寺様や神社が多い事に気付き、さらに真言宗のお寺様が多かったことから、また、強引な妄想を展開します。
下は小千谷港及びそこで信濃川と合流する湯殿川河口流域の地図です(※背景の地図は国土地理院地理院地図を利用させていただいています。)
この地図の範囲に寺院が9つありますが半分強の5つが真言宗、しかも同じ智山派。
五智院 (ごちいん) :真言宗智山派 707年、泰澄によって同市山寺に創建されたといわれている。創建当初は天台宗だった。1438年、兵火にあった。1564年、兵火にあった時、僧唱慶 (又は唱応) が今の場所 (元町) へ移された。そして、周辺は門前町として栄え、…(天台宗は最澄の前、鑑真により最初に日本に来たそうです、鑑真の来日は754年、ここになにか秘密がありそうですが)
證光院(しょうこういん) : 真言宗智山派 天正年間(1573~92)にここに移る
成就院( ? ):真言宗智山派
慈眼寺(じげんじ):真言宗智山派(戊辰戦争でも有名)
眞福寺(しんぷくじ):真言宗智山派
写真は五智院
全国の寺院の数はいかがなのでしょう?
ここで真言宗智山派の比率を計算するとおおよそ5%。しかし小千谷港付近は56%です。
真言宗智山派ってどういう宗派でしょう。
真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは wikipedia)は、日本における仏教の宗派の一つ。弘法大師空海を始祖とし、真言宗中興の祖・興教大師覚鑁(1095年-1144年)を開祖とする新義真言宗と呼ばれる宗派の中の一つ。
1601年創設との事
さてさて、ここを調べても例えば「五智院 (ごちいん) :真言宗智山派 707年に創建当時は天台宗」のある小千谷港のなりたちは解りにくいですね。智山派創設の900年くらい前に出来たのが五智院ですから。
空海・真言宗の土木技術
ここでは真言宗の開祖空海(弘法大師)を知らなくてはならず、思っていた通りのサイトが有りました。
そこに真言宗の土木技術が詳しく書いてありました。
★エンサイクロメディア空海「068 行基の残した港湾の水利ディベロップメント」
重要な点を少し引用させてもらいます。
天長5年(828)、嵯峨同様に空海と親交をもっていた淳和天皇は、空海をこの泊の造船瀬所別当に任じ、港湾整備の指導監督にあたらせる。
唐に留学した際中国の土木技術を修得した僧(例えば道昭)や、そういう僧から直接手ほどきを受けた僧(例えば行基)がいたし、仏教僧の必修として「五明」を教えていて、そのなかに工芸・技術・天文暦・占術を学ぶ「工巧明」があった。
空海は「工巧明」の点で、当時としては傑出していたと思われる。
ということで、空海の率いる技術者集団が真言宗、そこが小千谷港も受け持ったのでしょう。
でももう一つの疑問、「五智院は707年に創建されている」こと、しかし空海が唐より帰り真言宗の道場を作ったのが823年のころ、年代が合いません。
その理由を調べる前に
小千谷港という柏崎と魚沼を結ぶルートはどのようなものか?
●鉄製品の流通?
一つには柏崎の軽井川製鉄(たたら製鉄かと)が700年代から行われており、その規模は東日本一の規模だったらしい。小千谷港は魚沼街道で軽井川とつながっています。(参考:毛利氏と柏崎市軽井川製鉄遺跡を1つの年表にしてみた)
●さらに超高級繊維からむしの流通ルート
からむし Wikipedia から引用
越後国での麻織物の歴史は古く、731年(天平3年)に同国から朝廷に献上された「越布」が正倉院に収められている。 上布の最高級品であり「東の越後、西の宮古」と呼ばれる日本を代表する織物のひとつ。
ブログ筆者注:十日町から出荷する際、馬や荷車が使える峠道は小千谷港・魚沼街道まで北上しないと無かったと思われます。
カラムシの産地と小千谷港の関係地図が含まれる記事「越後の超高級繊維カラムシを調べていたら鎌倉幕府、大江・毛利から謙信、幕末までの謎解明。」
さてこうしてみると、
・五智院は707年に創建
・軽井川製鉄(たたら製鉄かと)が700年代から
・カラムシ 731年(天平3年)に同国から朝廷に献上
の符合が合いそうです。
しかし、この時点では空海・真言宗は生まれていません。実に古い越後の産業。
でも安心してください、先の土木技術の解説の際にも出てきた行基が居るのです。
行基の土木集団
行基 wikipedia
行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) – 天平21年2月2日(749年2月23日)[1]、奈良時代の日本の僧。
そして行基集団を形成し、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。
こうしてみると、国家的に大事な産業のカラムシと製鉄(渤海使節も来ていましたし)のある流通の要が小千谷港と魚沼街道で、それを行基集団とのちに真言宗の集団が開設・維持・管理したのではないでしょうか。
行基の関係の深い東大寺は天台宗とも真言宗とも関係が有り、五智院が最初天台宗であったとかは後の人のカン違いや書き間違いとかではないかと思います。
日本国にとって重要な小千谷港や魚沼街道は行基集団やもしくはそれに準じる技術集団そして引継いだ管理施設「真言寺院」によって測量され工事され維持されてきた。
というのが素人の強引な推理でした。
補足: 小千谷港は信濃川の入江に作られていたようです。
それが自然にできて整備されたものか、ゼロから作ったものかはわかりません。
現代の信濃川に同じような構造の入江が有ります。
長岡市越路地域にある信濃川内の入江と半島です。
最後に魚沼街道の寺院配置
峠道のある広田から塚野山に真言宗があるのが興味深いです。
北条にはありません。地形的に大きな土木工事は必要ないように思います。
真言宗は広田と塚野山に有りました。
宝光院(ほうこういん):真言宗豊山派
密蔵院(みつぞういん):真言宗豊山派 (文明元年(1469年)に中興された)
写真は密蔵院
真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)は日本の仏教宗派の一つで、新義真言宗の一派。総本山は奈良県桜井市の長谷寺。
この思い込みの考察が本当だったら小千谷港や魚沼街道(銀山街道・高田街道・小千谷街道とも呼ばれる)は1,300年くらいのとんでもなく長い歴史があることになりますが、どうなんでしょ。
最後に書き忘れていたものを、この五智院は1868年に日本で初めての小学校、小千谷小学校が開校された場所でもあります(現在は上記地図の左端の学校)。小千谷と五智院は実に時代の最先端でした。
その後五智院で調査漏れが発覚、
707年、泰澄によって同市山寺に創建されたといわれている。創建当初は天台宗だった。1438年、兵火にあった。1564年、兵火にあった時、僧唱慶 (又は唱応) が今の場所 (元町) へ移された。そして、周辺は門前町として栄え、…
小千谷市山寺は小千谷港から見て信濃川の丁度対岸です。
その対岸は三国街道という大きな街道が走っていました。
いずれにしろ三国街道と魚沼街道を結ぶ小千谷港(両岸)に関与しづけていたとみて間違いないと思います。だから戦火の後、同じ業務がこなせる対岸に移ったと見れるのではないでしょうか。
※参考:西暦700年代前半の日本の総人口は460万人前後との事。新潟県と長野県の合計くらいです。小千谷港の件は越後のただの田舎のお話ではなく、国家的なお話しだったと思います。
小千谷と十日町で有名なのが「へぎ蕎麦」。
特徴はふのりをつなぎに使っているところ。
ふのりは「布海苔」と書きます。
織物を織る時に使った海藻なのです。それを蕎麦の繋ぎに使ってみたら大変おいしかったという事みたいで独特の蕎麦なのです。
東京からもわざわざ食べに来られる方も多いとか。
もちろんネットで買えます。遠い歴史を味わってください。 アマゾン「小千谷へぎそば」
小千谷ちぢみの作務衣などもあります。
奈良の昔から江戸までの公家・貴族・武士の憧れを着ることが出来ます。(少し高いですがそれだけの価値があるものです)