越後柏崎の巨大製鉄所を平氏追討令旨の以仁王(もちひとおう)はおさえた?

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※郷土の歴史・伝説が巨大遺跡発見によって変わるのではないか、素人の好奇心の経過です。その1

平安時代末期平氏の時代に平家打倒を全国に発した以仁王(もちひとおう)が都で討ち死にしないで越後小国に来たという伝説が有ります。

なぜ小国なのか?

以仁王伝説(もちひとおうでんせつ)という本にも書かれているように小国氏というものがあり、以仁王と一緒に平氏打倒に立ち上がった源頼政の弟源頼行が小国頼行なった。
以仁王がもし生きていたら小国頼行を頼って落ち延びるという線は想像できる。

 しかし、はるばる越後に来る有力な理由がもう一つ出来ました。

巨大な製鉄所跡です。

 

これは、「柏崎の軽井川製鉄コンビナートの争奪に以仁王(もちひとおう)は当然関与するはず」という「妄想」のお話しです。

 

  1. 以仁王(もちひとおう)と平氏追討令旨と鎌倉幕府
  2. 柏崎軽井川の製鉄所跡発見
  3. 二つが重なるとしたらどのように
  4. おまけ、あの毛利家も製鉄所に絡んでた?

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1、以仁王(もちひとおう)と平氏追討令旨と鎌倉幕府

Wikipedeia:以仁王・・・後白河天皇の第三皇子、治承4年(1180年)4月、平氏討伐を決意した以仁王は、源頼政の勧めに従って、平氏追討の令旨を全国に雌伏する源氏に発し、平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した。

NHK大河ドラマ「平清盛」では松田翔太が後白河天皇を演じて、以仁王(もちひとおう)は柿澤勇人が演じた。

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この時代の経過

  •  1180年、後白河法皇の皇子以仁王が平氏追討の兵を挙げ、すぐ討ち取られたものの、これを契機に全国的に反平氏を標榜する勢力が立ち上がっていった。
  • 同年 源頼朝が鎌倉に入った。
  • 1183年7月、源義仲が平氏を京都から追放
  • 1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、6年に渡る内乱が終結した。
  • そして初めての武家政権、鎌倉幕府が成立していった。

 

 

2、柏崎軽井川の製鉄所跡発見

 まずは経過をあげます。

  1. 2004年、柏崎市軽井川にて柏崎フロンティアパーク事業の産業団地造成が開始された。
  2. 約28haの用地内で32の遺跡がありその内19箇所が奈良時代~鎌倉時代(約8世紀~12世紀)にかけて約400年に渡って営まれた鉄生産関連遺跡(製鉄遺跡現地説明会 2005/6/19 軽井川南遺跡群 下ヶ久保A、B遺跡のHPより)
  3. その歴史:8 世紀から 12 世紀のきわめて長期にわたり、製鉄が続けられた場所→貴重
  4. その規模:関連する各ページを見て廻るにつけ、東アジアの歴史的にも、製鉄技術史的にも大変な遺跡であることが解ります。
  5. 周囲の山林から木炭を作り、砂鉄を溶かして鉄を造っただけでなく、更に鍛造や鋳造という製品生産までの工程がこの場で行われたことが判っています。

つまり、製鉄から製品作成まで行っていた大工業地帯だったのです。

これ、奈良・平安・鎌倉国家の一大事な地ですよね。ね。ね。

遺跡をまとめた極めて貴重なページが有りました。

1、製鉄遺跡現地説明会 2005/6/19 軽井川南遺跡群 下ヶ久保A、B遺跡

周囲の山林から木炭を作り、砂鉄を溶かして鉄を造っただけでなく、更に鍛造や鋳造という製品生産までの工程がこの場で行われたことが判っています。
まだ全ての調査が終わったのではありませんが、下ヶ久保遺跡についての現地説明会が平成17年6月19日に行われました。

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、製鉄遺跡現地説明会 2005/8/28 軽井川南遺跡群 ショリ田遺跡

今回の現地説明会は遺跡群の北西部の谷間の約1,250平方メートルのショリ田遺跡。最初から繰り返して操業することを計画して作られた、古代の典型的な鉄づくりの姿を見ることが出来る。
計画では遺跡調査が終了するとこの遺跡は記録保存され、産業団地造成工事が実施されて消滅する。

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3、製鉄遺跡現地説明会 2005/10/30 下ヶ久保C、D、E遺跡

下ヶ久保C遺跡は9世紀から11世紀にかけて製鉄が行われていた遺跡で、軽井川南遺跡群の中で鉄生産量が最も多く、遺跡の中核を占めています。
 C遺跡の鉄滓が100トンを越すと考えられ、この区域で生産された鉄は60~100トンと推定されます。
 隣接する下ヶ久保D遺跡は古い形式の箱型の製鉄炉でここで始まった製鉄が、C、E遺跡へと発展していったと見られています。

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物凄い遺跡、東国の鉄器、農具、鎌・桑・鋤はここで作られ大和・平安王朝はその版図を広げていったのでしょう。

しかし、それを担ったのは東国武士。

さて、源氏平氏相乗りの東国が京の平氏に・・・・

 

 

 3、二つが重なるとしたらどのように

 年代地理的状況をみてみましょう。

年代: 製鉄は8世紀から12世紀の間、西暦700年年代~1,100年代。以仁王の挙兵は1180年。

ぎりぎり年代がかぶっていそうです。

少なくとも東国越後に鉄を作り鉄製品(農具中心)を作っていることはかなり知れ渡っていたことでしょう。

「これはな、越後鉄の鍬だ。強いぞ」とか話されていたでしょう。

農具中心といえどもいつでも武器製造が出来る技術はあったものと思われます。

核の平和利用が原発、鉄の平和利用が農具とでも言えるでしょうか。

東国武士団は鉄の鋤や鎌で農地開拓しどんどん版図を広げ、それを鉄の武器で守っていたわけで、越後の製鉄所は極めて重要な場所だったはずです。

で、ほかに製鉄所があったのか、

 キャスタロイ物語「日本の金属の歴史」によると、関東では川口(940年)、東北では山形(1051年)のみ。
東日本で最も古いのが700年代からの柏崎になります。

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平成15年から始まった調査で、柏崎市軽井川の遺跡がかなり大規模な製鉄所跡であり、平安末期から鎌倉にかけてのものであることが解った。

以仁王の前の時代から巨大製鉄所が越後に有ったのである。武器も作れる巨大施設。

で、その地は小国と山を隔てた地であり。

関東から柏崎に行く時は小国あたりを通ってゆくのが恐らくメインの街道。

 さらに銀山があったと言われる奥只見の地銀山平からの銀山街道。

地図で見ると下記になります。

 (背景の地図は全て国土地理院・地理院地図を利用)

とにかく「小国を通って柏崎にゆく。」

きっと京から北陸道を通ってゆくルートと並ぶ重要なルートだったと思います。

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小国と製鉄所の位置関係は下記になります。

軽井川は鯖石川流域、小国は渋海川流域、その間には標高518メートルの八石山を盟主とした200m前後の山が連なります。

柏崎方面から見たら衝立の向こう、隠れ里みたいなところでしょうか。

潜伏するには絶好の位置ですよね。

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現代においても重要なルート、夏の海水浴シーズンはこの道を関東からの観光客、群馬県等のナンバーの車が大量に走り抜けます。

 

平安末期、軽井川の製鉄所に何か関わろうとした場合。

隠れながら様々なアプローチが出来る最適地はどうみても小国なのです。

以仁様も本人が来るか従者や関係者が来るか

この重要な製鉄所の鉄の供給を断ってはいけない。

 

そうです。

ひょっとすると、小国の土地は以仁王グループが獲得し、源頼政の弟源頼を入れたものかもしれません。

これだけ地位の高い家の一族がはるか北の遠国「小国」に居る、当時の最先端産業鉄関連とみるのもありかと。

そう思うと小国に以仁王の何らかの痕跡があったのはむしろ当然なのでした。

結論(強引っすが)

「全国に平家打倒を発した以仁様は武士の国ー東国屈指の柏崎の製鉄所を押さえる必要があった、そのためには小国には仲間の弟を入るのが自然な事だった。」

「小国に以仁様かその側近が来るのはむしろ当然」

 

4、おまけ、あの毛利家も製鉄所に絡んでた?

 関東の政治クーデター事件で毛利氏は滅ぼされましたが

柏崎の製鉄所の近隣に居た毛利一族は何故か助けられました。

相模の毛利氏が滅ぼされたのは宝治合戦1247年です。以仁様の号令からやく半世紀後になります。

製鉄はどうなったか解りませんが、鉄工技術や商いルートは残っていた可能性が高いです。

毛利氏はそんな大事な地に所領をもらっていたのです。

場所は柏崎の南条です。地図を見ると製鉄所の直ぐ脇、当時はこの付近まで海が来ていたのかもしれませんし、少なくとも川を使った水運と東西南北の街道の十字路みたいな土地です。

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そこの毛利一族が技術集団だった場合、滅ぼすよりそのまま手に入れた方が良いという考え方もあるかと。

大きな企業グループが倒産した場合。有用な鉱山・工場はそのまま別の企業が買い取る。

そういう雰囲気でしょうか。

毛利氏はその後安芸の国にもあった所領に流れてゆきます。

そして、戦国時代は中国地方を支配することになります。

さらに戊辰戦争、長州軍(毛利)はこの地を通り越後長岡に攻め込みます。

はたして、奇兵隊はこの地が毛利氏の土地であったことを知っていたかどうか。

 

おしまい。

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