「炉に棲む日日」:鉄を支配した毛利氏の物語(司馬遼太郎風)

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※郷土の歴史・伝説が巨大遺跡発見によってかわるのではないか、素人の好奇心の経過です。その3

司馬遼太郎が生きていたら・・・こういう話もあったかも。  という妄想です。

 

炉に棲む日日

元暦元年(1184年)、京から東海道を下り鎌倉へと向かう源氏の一団の中に一人の官人がいた。
名を中原広元という、後の大江広元である。

頼朝の下で守護地頭制度施行に功をあげた広元は鎌倉幕府政所初代別当となり、鎌倉にほど近い毛利の庄に領地を得た。

その子季光(すえみつ)はその領地名をもらい毛利季光と名乗った。
毛利氏の誕生である。

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毛利季光は1221年の承久の乱で功をあげ、安芸国吉田荘の地頭職も与えられた。
長らく幕府の要職にいた毛利氏であるが、官吏から武士になったことでことさら武士であることにこだわり自ら縛られ、それが結局は身を滅ぼすことになる。

御家人になる、有力御家人の三浦氏から毛利季光は妻をもらった。

ナンバー1の北条氏の幕府に使え、ナンバー2の三浦氏から妻をもらうという権力を盤石にするに最も理想的な布陣をしたつもりであった。
しかし、にわかに北条氏と三浦氏の間が嫌悪になった。1247年の宝治合戦の初期において武家から来た妻に「武士には義理が大事、妻の実家に与するのが武家よ」と言われ、もともと官吏の息子、にわか武士の季光は従うほかなかった。
三浦氏は北条氏に敗れ滅ぼされ、毛利氏も一族ことごとく自刀となるところであった。

しかし、今度は毛利氏のもともとの官吏の血がその血脈を存続させることに役だった。

筆者はこの毛利氏の運命から人の世の不思議をあらためて感じずにいられない。

越後に居た四男毛利経光は赦され、そのまま越後と安芸の所領は安堵された。

異例である。

mourihoka

東国で最も古く大規模な越後刈羽の製鉄所と鉄器流通の差配と、たたら製鉄の中国の鉄を管理する能力は幕府には必要であった。
開拓と武器、幕府にとってもっとも大事な鉄器の管理は幕府では毛利氏にしかできない

本来、命は助けても所領は没収もしくは遠隔地に替えられもおかしくはない。
毛利の所領は変わらずに残されたことから、その土地に毛利氏がとにかく必要だったことが解る。

武士であろうとして滅ぶ寸前まで追い込まれたが官吏としての手腕で毛利は生き残った。

鎌倉幕府の重臣毛利氏がなぜ越後佐橋庄に居たのか、永らく不明で、特に理由などなくたまたまの恩賞としか思えない事であった。
だから安芸の国の領地も戦で奪った土地を御家人に褒美として配ったにすぎない、たまたま鉄の産地でもあった。毛利は良いご褒美をもらった。そこで思考を停止するのが普通であろう。

しかし、全国支配に向かう鎌倉幕府がそんな理由で有力御家人の領地を配置するだろうか。
その謎は21世紀になって柏崎市軽井川に巨大な製鉄所遺跡が発見されることによって一気に解決への歩みを早めることになった。
この遺跡はなんと毛利の佐橋の庄の中に有った。
中国山地のたたら製鉄と柏崎の製鉄と毛利が繋がったのである。

時代は下り戊申の役、毛利氏は日本最強軍となってこの佐橋の庄を通って越後長岡に向かうことになる。
しかし、そこには鉄の近代兵器で武装した戊辰戦争最強の敵長岡藩が居たのである。

この物語は室町から戦国の世にかけて鉄を支配し、大陸への輸出で富を得た毛利氏が貿易再開の為、秀吉と共に明征服に挑んでゆくまでの物語である。

参考サイト

流れゆく歴史
http://www.city.atsugi.kanagawa.jp/shiminbenri/kosodatekyoiku/bunkazai/shishi/mouri/p002902.html

宝治合戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%B2%BB%E5%90%88%E6%88%A6

大江広元
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BA%83%E5%85%83

毛利季光
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%AD%A3%E5%85%89

北条氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kitajo.html

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