河井継之助のポータルというかリンク集です。
継之助は つぎのすけ と地元越後長岡では読んでいます。つぐのすけ ではありません。
まずは公もしくはそれに準じたサイトから
- 河井継之助記念館・・・新潟県長岡市(長岡藩)の記念館のホームページ
- 河井継之助記念館・・・福島県只見町(継之助終焉の地)のページ
- Wikipedia 河井継之助・・・ここももちろん詳しいです。
- 最後のサムライ・・・河井継之助を主人公にした演劇舞台のサイト
情報リンク集の前に河井継之助を知る上での年表・キーワードをあげておきます。
それを各リンク先で詳しく調べるのも楽しいです。
継之助リスト型簡易年表・キーワードリンク
- 文政10年1月1日(1827年1月27日)生まれ、越後長岡藩牧野家の家臣
- 継之助は幼名・通称、諱(いみな)は秋義(あきよし)号は蒼龍窟
- 祖先は2説、近江膳所藩本多氏の家臣 と 蒲原郡河井村出身の地侍
- 河井家は越後長岡で牧野家の新参家臣となった。
- 嘉永5年(1852年)の秋頃、継之助は江戸に遊学する。佐久間象山の塾にも通い始めた。
- 翌嘉永6年(1853年)継之助の建言は藩主の目に留まることとなり、新知30石を与えられて御目付格評定方随役に任命される。
- 人事に反感を持った家老など藩上層部の風当たりが強く、結局何もできないまま2ヶ月ほどで辞職
- 安政6年(1859年)備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。佐賀、長崎、熊本も訪れ、知見を広める。
- 藩主・牧野忠恭が京都所司代になると継之助も京都詰を命じられ、翌文久3年(1863年)の正月に上洛
- 慶応元年(1865年)に外様吟味役に再任されると、その3ヶ月後に郡奉行に就任する。これ以後、継之助は藩政改革に着手する。その後、町奉行兼帯、奉行格加判とどんどん出世し、その間、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施した。
- 慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が大政奉還、討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古を発した。
- 長岡藩では、牧野忠訓が藩主となり継之助と公武周旋のために上洛、継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出すも反応なし。
- 翌慶応4年1月3日(1月27日)、戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍敗退と慶喜が江戸に帰ったのを見て江戸へ戻る。
- 継之助は江戸藩邸を処分売却。その金や為替差益等で軍資金を増やし、アームストロング砲とガトリング砲とイギリス製の2,000挺のエンフィールド銃・スナイドル銃などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。
- 新政府軍が小千谷にせまると、藩論を抑えて獨立特行を主張し、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした。
- 5月2日(6月21日)、河井は小千谷の新政府軍本陣(慈眼寺)で会談するも決裂。奥羽列藩同盟に加わり、2日後に北越戦争へと突入する。
- 継之助は名実共に開戦の全権を掌握した。継之助の開戦時の序列は家老上席(関連:越後長岡の家臣団)、軍事総督。
- 北越戊辰戦争において長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。
- 、5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた
- 6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じる。7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日(9月11日)に長岡城を辛くも奪還する。
- 奇襲作戦の最中、新町口にて継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。
- 城を奪還され一旦後退した新政府軍であったが、すぐさま体勢を立て直し反撃に出る。長岡藩にはもはやこの新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、4日後の7月29日(9月15日)に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびた。
- 16日(10月1日)の午後8時頃、只見・塩沢村の医師矢澤宗益宅にて死去した。享年42。
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「民は国の本 吏は民の雇」「眼を開け、耳を開かなければ、何事も行はれぬ」など、現代にも通ずる至言・名言・箴言(しんげん)を紹介し、言葉の背景を解説。
最近の動き
林修氏の支援
- 林修さんは河井継之助をずっと御贔屓にしていられます。
- 新潟県の番組にも登場(~林修が迫る 河井継之助の真実~)
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