「越路巴ヶ丘の新潟県最古の桜は勤めを終えました」物語

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天気の良い3月の日曜日、雪融けが進んだので自転車を出した。

巴ヶ丘へのきつい坂道を登り、越路中学校下からもみじ園への穏やかな道に入った。

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荒い息が落着き、いつものように来迎寺の街と遠く長岡駅前のビル街まで見える丘にでる。
いつもと比べ、何かがおかしい。
明るすぎるのだ。
普段見えにくい日赤病院のビルがよく見える。

しばらく進み右手、道路下を見ると大きな木の切株が積み重なっていた。
あの2本の桜の老木が切り刻まれ横たわっている。

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桜の老木の一生と、鋸を入れた人・切ることを決めた人の切なさが一瞬に頭をよぎった。
自転車を降りて思わず両手を合わせ合掌した。
「ありがとうございました」

冬のさなか2月、雪が緩んだときに1回自転車で来たことがある。
その時にここで桜の大きな枝が折れているのを目撃した。
今年の雪はいきなり重かった。

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老木の大きな枝が折れた事、それがどういう事態なのか解らなかったが
この日その意味が解った。
老いた桜を長年管理してきた人たちが老木の限界を感じ、こうやって別れを告げたのだった。

切株の方に歩いてゆくと声が聞こえた。

「別れを全国に伝えてくれないか。君にしかできないから。」

周りに人影もなく老木が喋るはずもない、おそらく、私の心の中で生まれた声なのだろう。神谷集落の人から聞いてたことともみじ園の人達から聞いていたことがもとになっている、おそらく。

切株と下界に広がる雄大な景色を前に
次から次へと老木の言葉が浮かんでくる。

私はそれを、桜の声を、記憶し書き留めた。

 

桜は語る・・・・・

 

私が最初に気が付いた時はこの場所に植えられている時だ。

苗だった私を植えている大人と手伝っている子供の会話が私の最初の記憶だ。
「この苗は何?」
「これはね、桜だ。江戸の、おっと東京だったね、東京の染井さんが作ったとてもきれいな桜、ソメイヨシノだよ。」
その時、私が何者なのか知った。私はキレイな桜。後から聞いたけど、私の仲間は全て双子兄弟、双子どころか100万子兄弟くらいいるかもしれない。

大洪水と山荘

聞いた話だけど、私が生まれる前、明治28年(1896年)7月、越後に大雨が降り、信濃川は溢れそうになりながらもどうにか持ちこたえていたそうだ。

でも、日本一の信濃川には広大な上流、信濃の国が有るんじゃ、その地では信濃川は千曲川と呼ばれている。
この時、信濃にも大雨が降り、洪水はひどいもので家が1万戸以上も流されたそうじゃ。

家も木々も人もまるごと越後に流れてきたのじゃ、越後の信濃川も遂に氾濫。ここより下流では横田切れという大惨事になった。

長岡から新潟までが湖になった。湖というより淡水の海と言った方がよいかの。

(下ページ:信濃川の洪水による被害の状況【信濃川-1896年】 「信濃川大河津資料館ホームページ」 )

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三島郡南部の神谷集落、ほらここから遠くに見えるあの集落じゃ。そこも例外ではなく周囲の集落と共に大きな被害に遭ったそうじゃ。
神谷の大地主高橋家は平野部の神谷には避難できる高台が無いため危険と思い、隣の来迎寺集落と朝日集落の間に有る丘の一部を買い取り避難所にすることを考えたそうじゃ。いつ災害が有っても良いように普段は山荘として整備しておこう。
そうして高橋家の山荘が高台に出来た。その地は巴ヶ丘という地で巴ヶ丘山荘と呼ばれることになった。

植樹
雑木林に囲まれた山荘はとても過ごし易すかったそうじゃ。
しかし、東京の新しい文化を見てきた高橋家の当主には今一つ殺風景なものに見えた。

神谷の村にはオランダからやってきたチューリップを植えてみた。
ここの山荘にはあの江戸の傑作桜ソメイヨシノを植えてみよう。
果たして雪国でも育つか。
雪多き越後、江戸・東京のソメイヨシノの半分でも育ってくれれば。

そうして私は植えられることになったんだ。

・・・・それでさっきの最初の記憶の時代になったんだね。

そうだ、私たちが植えられた場所は山荘からも、下界の街からも遠くの神谷からも良く見える場所だった。

私たちはそこでぐんぐん育ち、そしてついに花をいっぱい咲かせることが出来た。

人々はその美しさに驚いた。

なにしろ私は新潟県・雪国越後で咲いた初めてのソメイヨシノなのだ。

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・・・・いろんな人達が見に来たんでしょうね。

そうだな、満開になると様々な人が見に来たよ。

花の時期じゃないけどイギリス人がやってきたこともあったな。

当時日本は世界最強国家のイギリスと同盟を結んでいて、ウエッブ夫妻という研究者が神谷の水害復興の組合を調べに来た時に山荘に泊まったんじゃ、その時に私の満開時の写真を片手に見に来たことがあった。

こっちも、髪や目の色がキレイだなと思ったよ(^^)

 

忠魂碑は桜の下へ

 ウエッブ夫妻は日本の民衆の力を見に来ていたけど、日英同盟そのものは軍事的なもので、その後日本は日露戦争と第一次世界大戦を戦い勝つことが出来た。

でも、多くの国民が戦死してね、そこでこの地域でも忠魂碑を建てようという事になったが、どこが良いか意見がいろいろあったようだ。

その時、誰かがあのキレイな桜の中に建てたら戦死者の供養になると思うのだけど。と言ったようだ。

その案は最も多くの賛成を得て高橋家も喜んで協力することになり、そうして大正9年1920年に大きな石板の忠魂碑が建った。

そんなこともあったし、そのほかにも面白いものをいっぱい見て来たよ。

まだ植えられたばかりの明治31年(1898年)12月に北越鉄道が開通したんじゃ、今の信越線だよ。何も無い所に来迎寺駅が造られ瞬く間に駅前の街が出来ていった。

明治44年(1911年)9月には魚沼線が開通、来迎寺駅は魚沼への玄関になりそれはもう栄に栄えたんじゃ。駅前は旅館や料亭がいっぱいできて、芸子も大勢いて春にはみんな私を見に来ていたものじゃ。

昭和11年

戦争で亡くなった兵士の名前を書いて供養しようという事になり、忠魂碑の脇に経てることになった。

その石碑は砲弾をイメージした搭となり、私と、一緒に今回伐採された桜との間に建った。

忠勇千古名というその搭には西南の役・日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦で亡くなった人たちの名前がすべて書かれた。

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太平洋戦争

でも、その後、悲しいことも目撃したよ

昭和20年(1945年)8月、アメリカの爆撃機が夜空いっぱいに飛んできて長岡の街を焼いたんじゃ。

私の丘からはその空襲がとてもよく見えて怖かったよ。

結局日本はその太平洋戦争に負けたんだけど、今までの戦争とは比較にならない多くの兵隊さんが亡くなったんじゃ。

あまりにも多くて忠勇千古名の銅板は4面ともすべて埋まった。

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子どもたち

今度は良いお話、とってもうれしかったこと。昭和37年(1962年)4月、私達の居る丘のすぐ上に越路中学校校舎が完成して、中学生が私の下の道を通うことになったんじゃ。

もう何千人も私の花びらの下をくぐって勉学に励んだのさ。

勉強ができる子できない子、脚の速い子遅い子、絵のうまい子へたな子、いろいろいたけど、みんな卒業していった。

私があなたにお願いしたいのは、この全国に散らばった越路中学校の卒業生と、もちろん、戦没者の子孫に私たちが勤めを終えた事、そして今話した思い出を伝えてほしいんじゃ。

全員でなくても良いから、あの桜はどうなったかなと思い立った人が調べた時にせめて見つかるようにしてもらいたいんじゃ。

お願いできないかのう。

・・・もちろん、喜んで

 

おわり (ものがたりはフィクションです。事実と異なることが多く含まれています。)

 

最後の開花(2014年4月12日:kosikuwa撮影)

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あらためて ありがとうございました

 ※この巴ヶ丘のソメイヨシノが育ったことで、雪でも育つことが確認され、悠久山ほか県内各地へのソメイヨシノの植樹に繋がったそうです。

※今年(2015年)は敗戦70周年で、節目の年です。70年目まで老木は頑張りました。日本とアメリカとの間は12月8日の慰霊の花火等で特にハワイと長岡の間で大きく友好が前進しています。(日本と中国間が引き続き少し残念ですが)

※戦争・平和の有りかたに関しては、この桜の木の下を通り長岡中学に通っていた半藤一利さんが継続して取り組まれています。

 

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