※郷土の歴史・伝説が巨大遺跡発見によって変わるのではないか、素人の好奇心と妄想の経過です。その6
この際、製鉄と毛利氏の関係を年表にしてみました。
参考資料:「柏崎市の歴史(柏崎市史)
546年~永歴元年(1160) | 文治2年(1186)~寛正6年(1465)」
弥生 時代 |
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奈良 時代 |
701年 | 8世紀、柏崎市軽井川の製鉄は調査の結果、約8世紀~12世紀とされる。700年代から1,100年代にあたる約400年間とされる。 |
787 | 越後国に命じて渤海使に船1艘・□(=柁)師・挾杪・水手を給い、帰国させる。 (渤海国は朝鮮北部・満州・沿海州に跨る国家。韃靼族により起こされた。韃靼(タタール)=たたら?) 製鉄技術を持っていた渤海国の使節が越後に居たようですね。軽井川の製鉄遺跡の発見でなぜこの時期に越後に居たのか解ったのではないか。 |
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平安 時代 |
878 | この頃、西山町内越遺跡で製鉄 |
1047 | 興福寺、信濃・越後等の国より赤土(鉄分多く・柏崎にも多し)各20石を送らせる | |
1160 | 越後国、摂関家知行国となる | |
1183 | 寿永二年十月宣旨、朝廷は頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証、頼朝の東国支配権を公認 | |
1184 | 大江広元:相模国鎌倉に下向。源頼朝の家政機関たる公文所別当に就任。 公家等のものだった荘園・公領が事実上頼朝のものになった?管理技術の指導者として大江広元が呼ばれたのでは?妄想すれば東国1の収益と重要施設軽井川製鉄には大江氏が直接関与したのでは、それが毛利氏が佐橋庄に領地を得ることになった要因では? |
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鎌倉 時代 |
1185 | 壇ノ浦の戦いで平氏滅ぶ |
大江広元、恩賞により肥後の山本庄、伊勢の栗真庄、周防の嶋末庄、相模の毛利庄を授けられる。 | ||
1197 | 内蔵某・源氏女ら、上軽井川に如法経を埋納する 内蔵成光・源氏女ら、上軽井川に経典を埋納する ※軽井川は重要な地で宗教の力が必要になっていたようです。 |
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1247 | 三浦泰村の乱(宝治合戦)相模毛利庄の毛利氏滅ぶ | |
1270 | 毛利経光、越後国佐橋南条の地頭職を四郎時親に譲る | |
1306 | 室町院領越後国佐橋庄を高倉経守に管領させる | |
1311 | 毛利時光、佐橋庄北条に時衆道場(専称寺)を建立する | |
室町 時代 |
1336 | 毛利経光四男時親、吉田庄へ移る。(この年に建武式目が発せられ、室町幕府の成立年とされる) |
1457 | 北条広栄、佐橋庄北条之内所々を、専称寺領として寄進する | |
1478 | 毛利重広と柏崎不退寺との山論(山林・原野など山に関する争論)について、上杉房定は、不退寺の競望を停止し、毛利重広の知行を命ずる | |
安土 桃山 |
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江戸 時代 |
1868 | 戊辰戦争、長州軍(毛利軍)佐橋庄を通り越後長岡に進軍する。 |
明治 ~平成 |
2004 | 柏崎市軽井川の工業団地(フロンティアパーク)造成工事中に製鉄遺跡が発見される。 |
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