地図で見る、越後佐橋庄南条館付近で渡河、河内鋳物が毛利庄や柏崎大久保へ伝わった件

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※郷土の歴史・伝説が巨大遺跡発見によって変わるのではないか、素人の好奇心と妄想の経過です。その7

図書館で柏崎市史や北条町史を調べていろいろ発見。

ネットで確認したりして今回は地図にしました。

  1. 佐橋庄南条は交通の要衝
  2. 相模の毛利庄は河内鋳物師の流れであった。
  3. 柏崎の大窪鋳物も河内鋳物の流れ
  4. 河内の鉄関係マップ、ちゃんと毛利氏の領地も有ります。

 

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1、佐橋庄南条は交通の要衝

図書館で地図を見てびっくり、今の平野部は昔はとても人の行ける場所では無かった。川も歩いて渡るのが基本。泥の川底では渡河は出来なかったとか。

現代の地図上に写してみました。

それで、佐橋庄南城館まで回り込んで街道が出来ていた

佐橋庄の「橋」は橋が有ったのかどうか不明ですがとにかく交通の十字路です。

興味深いのは、例の軽井川製鉄遺跡と街道で繋がっていること。

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さらに佐橋庄南条の重要性について

鯖石川(佐橋(さはしがさばいしになったものと))を使い大事な木炭の調達が容易で、かつ陸揚げが出来る数少ない場所だったようです。

とにかく八石山・黒姫山という刈羽三山のうち2つがこの川の水系であり、船での輸送など便が良かったのではないかと思います。

先日の調査では雪どけも有って水量が有りましたし。

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2、相模の毛利庄は河内鋳物師の流れであった。

毛利庄の鋳物師は関東を代表する鋳物師だったようです、本場河内から来ましたから。

やがて鎌倉大仏も相模の鋳物師が手掛けてゆくことになる訳で、大事なことです。

で、毛利庄においても毛利と鉄の関係は深かったのです。それも極めて。

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3、時代が下っての話ですが越後の柏崎の大窪鋳物も河内

南北朝の騒乱で河内鋳物師は越後の柏崎に逃げてきます。

毛利氏が河内に領地があった事が、背景にあるとみるべきでしょう。

で、鯨波に川内(河内と漢字違い)があって鋳物集団は最初そこに居た。

ついで柏崎が生れるとそちらに移動。

そのほか、燃料供給地として谷根の炭焼きが有った。

この木炭は軽井川の製鉄以来なのか、河内からの鋳物集団用なのか。

由緒正しい地域資源が有るようです。

谷根の炭焼きって今も有るようです。

柏崎市のページを見ると周辺にその技術を伝えたとの事。

たたら製鉄の中国地方には備長炭があります。

谷根炭ブランドはいかがなのでしょう。

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4、河内の鉄関係マップ、ちゃんと毛利氏の領地も有ります。

さて、河内は鉄の国ですね。

製鉄も鋳造も行われていて、毛利がその地域の中に領地を持っています。

大江氏の先祖土師氏は金属建築道具「ノミ」の関係の技術集団だったようで、鉄が早くも出てきます。

河内鋳物集団のすぐ上流の地に毛利は領地が有ったようです。

相模毛利の庄にも、越後の柏崎にもその河内の鋳物師は行っており、それぞれ地域に根付いています。

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さて、これで大江・毛利の祖先の地河内に製鉄や鋳物があって、大江氏はこの時点で鉄に深く係わっていたと推測されます。

やがて相模の毛利の庄に行き鋳物を行い

越後の佐橋の庄で、鉄の産地の管理をしたのではないでしょうか。

大江氏は地頭の設置を提言・実現し鎌倉幕府の背骨を造った訳です。

当時もっとも最新技術で国造りに欠かせない製鉄関連の施設の有る庄をどうするか。

最も稼げて、最も難しい所です。その荘園を預かる貴族とどのように分け合うか役割分担をするか。

そしてどのように管理、砂鉄を集め木炭を集め、粘土質の土を確保し、流通はどうするか、労働者はどうするか。

幕府のナンバーワン大江広元が直接やるしかないでしょう。

こうして軽井川製鉄の最要衝の佐橋の庄南条館に毛利の出先が出来ます。

 つづく

 

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