鎌倉幕府を支えた?越後柏崎佐橋、大江・毛利が来るほど宝の土地だった。

このエントリーをはてなブックマークに追加

※郷土の歴史・伝説が巨大遺跡発見によって変わるのではないか、素人の好奇心と妄想の経過です。その11

いろいろ調べました。

佐橋の地頭に大江氏の子息がなる。

なにしろ鎌倉幕府のナンバー2の子息が乗り込む領地

普通の地では無い、軽井川の巨大製鉄遺跡の話はいろいろ話してきました。

しかし、まだ、語るべき日本一のことが有ったのです。

そして、佐橋はもともと誰の領地であったのか。 佐橋の位置とは、越後とはどういう存在であったのか。

驚愕でした。

一つ一つ見てゆきます。

スポンサードリンク

1、佐橋庄とはその地域とは

佐橋荘の初見これによると六条院領で,沙汰人は一条院女房右衛門佐局

角川地名大辞典より

http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7310148

  • 六条院は六条天皇の追号(死んだのちにつけられた名前)・・・六条天皇は二条天皇の息子、平家追討の以仁王の甥、以仁王の息子の北陸宮と従弟。
  • 一条院女房右衛門佐局六条院は白河上皇の皇女
  • 源頼政は後白河天皇の皇子である以仁王と結んで平氏打倒の挙兵を計画、二条天皇・六条天皇・高倉天皇の三代に仕えた。 佐橋は六条院領ですぐ隣の小国に源頼政の子である頼連(頼継)が鎌倉時代の初期に越後国小国保の地頭となって、小国氏を称していた。

戦国日本の津々浦々 柏崎

http://proto.harisen.jp/minato1/kasiwazaki.htm

  • 明応三年(1494)、守護・上杉氏が柏崎の代官的立場にあった国人・毛利重広に発給した制札には、柏崎に出入りする物品に対する賦課が示されている。このうち、からむし(青苧)、布こ(麻織物)、ミわた(身綿)、かミ、くろかね(鉄)が一駄廿文と最も高い賦課をかけられており、これらが流通上で重要な物品とであったことがわかる。
  • 青苧は魚沼郡から堀之内や小千谷、蔵王堂などを経由して柏崎に運ばれ、さらに「越後船」などで小浜に海路輸送された。 柏崎の商人が京での青苧販売を行っていた

青苧(あおそ)カラムシ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%B7

  • 茎の皮からは衣類、紙、さらには漁網にまで利用できる丈夫な靭皮繊維が取れる
  • 『日本書紀』持統天皇7年(693年)条によれば、天皇が詔を発して役人が民に栽培を奨励すべき草木の一つとして「紵(カラムシ)」が挙げられている。 中世の越後国は日本一のカラムシの産地だったため、戦国大名として有名な上杉謙信は衣類の原料として青苧座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げた。新潟県の魚沼地方で江戸時代から織られていた伝統的な織物、越後縮はこれで織られていた。

越後上布 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E4%B8%8A%E5%B8%83

  • 越後国での麻織物の歴史は古く、731年(天平3年)に同国から朝廷に献上された「越布」が正倉院に収められている。 上布の最高級品であり「東の越後、西の宮古」と呼ばれる日本を代表する織物のひとつ。
  • 鎌倉時代には、『吾妻鏡』に1192年(建久3年)に征夷大将軍就任を祝う勅使への贈り物に「越後布」を贈ったという記録が残る。
  • 室町時代を通じて、権力者への贈り物として越後布は欠かせない品であった。1560年(永禄3年)には上杉謙信が朝廷へ越後の麻布を献上し、1586年(天正14年)には上杉景勝が300反もの越後布を豊臣秀吉に贈っている
  • 元禄頃には諸大名からの御用縮布の注文がなされるようになる。あまりに贅沢だということで天保年間には奢多品禁止令の対象にもなった。

さて、ここまでを見て佐橋の庄は柏崎平野を横切る最も海よりの場所であった(山の中に食い込んでいるが)さらに街道が小国小千谷や魚沼まで通じ、青苧を京に売るための街道の大事な場所でもあった。

東日本最大の鉄のコンビナートと日本最高の織物の原産地の要、それが佐橋であった。

頼朝はもちろん最高の人選をした。

大江広元に任せよう。

 

sabasi

長州藩と水戸藩  奇跡の点と線(1)

http://shogiku.sakura.ne.jp/special4tensen1.htm

  • 徳川光圀(水戸黄門で知られる)が「大日本史」の編纂に着手し、天皇家への忠誠心が培われ、尊王の思想が育まれていった。
  • 毛利氏の祖を鎌倉時代まで遡りますと大江広元(1148~1225)に行き当たります。実は大江氏は武家ではなく、学問をもって京都の朝廷に仕えていました。源頼朝が政治顧問として広元を招いたとき、腐敗した貴族政治に失望していた広元は鎌倉にくだり、公文所(のちの政所)別当となり、草創期の鎌倉幕府の政治・行政面の整備に功績をあげました。
  • そのため毛利氏は江戸時代に入ってからも、朝廷に対して年末・年始などの貢献を絶やすことはなかったのです。幕府は諸大名が朝廷と直接関係をもつことを禁じていましたが、毛利氏に対しては旧来の関係を認めて、伝奏を勧修寺家が務めることを許可しました。

大江・毛利はその手で武士の世を始め、そして閉じた。

つづき、ちょっとしたストーリー

将軍・幕府の仕組みの始末、大江広元と長州の不思議

スポンサードリンク

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA