大江広元が将軍・幕府の仕組みを作り、潰したのは子孫長州毛利という不思議

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※郷土の歴史・伝説が巨大遺跡発見によって変わるのではないか、素人の好奇心と妄想の経過です。その12

ここに至るまとめ、「鎌倉幕府を支えた越後柏崎佐橋」、大江・毛利の夢の砦、もっと詳しくはカテゴリ「鉄と武士」でものぞいてみてください。大江広元ほか妄想で蛇行していますが^^


 

鎌倉の頼朝の館に数人の男が居る。

一人はもちろん源頼朝、大きな日本地図を挟んで頼朝の対面に居るのが大江広元であった。
ほかに2名が頼朝を挟んで座って地図をにらんでいた。
その2名は北条氏と三浦氏であろうか。

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介様も私も世話になった六条院の領地、山を挟んだ小国は恩の有る源頼政(以仁王と共に平家打倒の挙兵)殿の子息の領地。
鉄の産地であり加工職人の地であり青苧の集積地である佐橋の庄。
東国の開拓農具・暮らし・建築、そして武器にもなる鉄の最重要地。
さらに、京の公家たちの垂涎の青苧の産地。
鎌倉の生命線である。

大江広元がぼそりと言った。
「越後に入り、鉄生産と物産流通を治めます。ここで地頭の役割を固めます。六条院との関係を作り直します。」
頼朝が言う
「遠い越後、すまぬがお主以外に適任は居ない、武士の統治、地頭の形を作って来てほしい。北条殿・三浦殿、それでかまわぬな。」
「願っても無いこと、これで朝廷との関係が正されることになろう」北条氏に異存はない。
「地頭と公家の有りかたを正してきてほしい」三浦氏にも依存などは無い。

かくして、大江広元が最も重要な地佐橋の地に行くことになった。
広元は越後佐橋に入り地頭の仕組みを作り上げ後の経営は息子に任せた。

広元は忙しかった。
この国を東に北に開拓し、農民の力を・武士の力を伸ばす、もっと自由に動く為にどうしたらよいか。
鉄は確保し農具も家事も建築も万全である。
しかし、いちいち朝廷に伺いを立てるのは煩雑、武士が自由に動けない。
広元は中国大陸に事例を探した。
中国では遠征中の軍は現地で軍事だけでなく全権を持っていた。
征夷大将軍だな。
広元は頼朝と北条・三浦氏に征夷大将軍というアイデアを話し、了解をもらった。
広元は上京し朝廷に伺いを立てる。
奥州藤原氏及び豪族の土地を朝廷の元に組み込みたい。広大な陸奥、そして関東、武士を束ねる臨時政府征夷大将軍職を貰いたい。(木曽義仲は征東大将軍(征夷ではなく征東)になっていたが権限の違いは不明)

征夷大将軍が誕生した。
全権を委譲された武士政権が生れた。

下って、幕末、江戸幕府はペリー以降の事で朝廷に伺いを立てる事態となった。
このとき既に徳川は将軍では無くなっていたのかもしれない。
全権ではなくなったのだ。
征夷大将軍というアイデアは幕を閉じることになった。
最後に軍事的に引導を渡したのは毛利氏の長州藩である。
毛利氏は幕府・将軍の仕組みを作った大江広元の子孫であった。

幕末にはもう一つ別の毛利の話が有る。
相模毛利庄を失った後の毛利の本家は越後柏崎の佐橋。
柏崎の大江・毛利氏は北条(きたじょう)氏になっていた。
本家筋の北条氏当主は代々大江広元の「広」の字を用い、安芸・長門の毛利は元を使った。毛利元就や輝元がそれである。
長州は父祖の土地、佐橋・北条を通り越後長岡に進軍した。
そこに待ち受けていたのが鉄の最新兵器で武装した長岡藩であった。
西軍・長州は初めて苦戦しついには敗走した。

西軍諸藩は事態を憂いた。維新は失敗するかも。
長州勢は違った、先祖・本家の地越後が強いのは当然。我々は胸を借りる立場だ。
かくして長州は越後長岡を抜き会津を落とし、幕府・将軍の世を葬り天皇の世にもどした。

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