※郷土の歴史・伝説が巨大遺跡発見によって変わるのではないか、素人の好奇心と妄想の経過です。その13
図書館と現地で調査。
高柳町史に詳しく出ていました。
高柳町史では北条町史の中にある範囲の記録をベースにしているようですが、北条町史に佐橋庄の範囲についての具体的な記述は無かったような気がします。
記録に佐橋庄は二千貫(安芸吉田は一千貫)とありますが、それは約二万石とのこと。
それも考慮に入れて範囲を再計算した要素もあるようです。
高柳まで佐橋庄だったんですね。
黒姫山の麓、材木が山ほど採れたでしょうか。
木炭にするのは軽井川に造った高性能の木炭釜ですのでそこまで木材を運ばなければならない。
その点鯖石川があるので高柳からでも楽に木材を運べたでしょう。
良い場所に製鉄コンビナートを作りました。
佐橋南条館自体がもう一つの山塊の八石山にほぼ繋がっており木材の供給においても大きな機能を果たしていたように見えます。
下の写真の左の山が八石山、右の小さな森が南条館の有った森(現佐橋神社)
では、おおよその佐橋庄の範囲の地図です。(ベースの地図は国土地理院の地理院地図(おそらく25000分の1)、大雑把な地図です。境界は想像。)
航空写真を見ると木々に恵まれた庄であることが解ります。
また、鯖石川を馬でも渡河できる場所は南条館のあたりまで行かないと無かったとか。
その為、街道は大きくそれて遠回りになっています。
それだけ佐橋の渡河可能地点は大事な場所だったのでしょう。
南条館・佐橋神社の少し上流(南方)の鯖石川土手まで行ってみました。
上:南条館の少し上流の橋、同じような場所に橋は架かるものなのでこの付近か?
下:上記のさらに少し上流、瀬がありました。1000年前と川はすっかり変わったでしょうが平野部から山間地に入って、川に高低差ができて、渡河にいろいろ便利なものになったのかもしれません。
おそらくこの川を雑木を積んだイカダや船が下ったのだと思います。
製鉄遺跡の資料調査につづく