広田峠と塚山峠とおまん茶屋

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  • 平安~鎌倉時代の佐橋庄と小千谷方面を結ぶ街道
  • 北越雪譜の「吹雪の塚山峠」の街道
  • 戊辰戦争の西軍(官軍)の越後長岡への主な進軍ルート。

 

図書館で旧市町村史をいろいろ調べてきました。

戊辰戦争の時を中心に街道の事情を見てゆきたいと思います。

様々なルートを通って西軍は小千谷や長岡に進軍したようです。

柏崎から小千谷への移動では市町村史には塚山の記述が多く、塚山峠や広田峠の周辺への人員動員命令の記録も多く やはり塚山経由を採用したようだ。

柏崎から小千谷に行く際に必ず2つの峠を越えなければならないが、塚山を通るルートの峠が一番低い。

なかなか、地図が無かったので自分で想像で作ってみました。

kaidou

 おそらく柏崎→ 広田峠→ 塚山→ 薬師峠→ 小千谷 が峠の海抜も低く、ルートも直線的で早かったものと思います。

柏崎市のサイトに「広田峠・塚山峠」についてのページが有ります。

塚山は重要な場所として、東西の軍の争いの地でもあったようです。

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で、広田ですがここも佐橋庄の一部、越後毛利、大江広元の子孫です。

広田の広は広元の広の可能性が有ります。

毛利元就など安芸の毛利は広元の元の字を使いました。

本家筋の越後毛利は広元の広の字を多用したようですので。

可能性ありです。

広田峠のルートも妄想してみました。

現在の峠道をなぞっています。

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長州軍は越後毛利の領地だった場所を通り、先祖大江広元の名前を冠した峠を通って小千谷へ進軍したのかもしれません。

 興味深いです。

 上記地図にもありますが、江戸期だと思いますがおまん茶屋伝説というものが有ります。これは茶屋のきれいな店主おまんが武士との間のトラブルに巻き込まれ悲劇が起きたというものです。

また、同じく江戸期の北越雪譜という雪国の文化の書籍にも吹雪の塚山峠での悲劇を挿絵入りで紹介しています。

一番標高の低い峠ですので通行量が多くいろいろあったんですね。

他の標高の高い峠は気象条件はもっと大変だったことでしょう。

いずれにしろ、その地理的条件から歴史を通じて様々な人々が行き交った大事な峠であったことは間違いない所です。

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