血脇守之助が真宗大谷派三条別院に行ったから後に野口英世と出会うことに

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野口英世、ノーベル賞候補に何度もなった、惜しくも黄熱病でアフリカで亡くなった医師。

その伝記は知らぬものがいないくらい有名です。

で、ご存知のように野口英世のために必死にお金を工面したのが血脇守之助(ちわきもりのすけ)氏

彼が居なければ野口英世は存在しなかったでしょう。

 

文学座の舞台「再びこの地を踏まず」の中で、血脇守之助は「野口君は私に返さなくても良い、誰か別の人に返してくれ。」

と言います。

なんてすごい、素晴らしい人でしょう。と思って調べましたら血脇自身が別の人から援助を受けて育った人なのでした。

実は血脇守之助も助けられ、使命を感じて新聞記者から教師、そして歯科医師を目指します。

教師をしたのは新潟県三条市にある真宗大谷派三条別院の学校でした。

gobosama

 

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以下血脇守之助氏を中心にまとめ、メニュー

  1. 真宗大谷派三条別院の学校
  2. ドクトル田原 利との出会い・援助
  3. 野口英世とのこと
  4. 血脇守之助と東京歯科大学と日本歯科医学会

 

1、真宗大谷派三条別院の学校

新聞記者をやめ血脇 守之助氏は英語教師として新潟県三条市に向かいます。

そのあたりの年表をWikipediaから拝借します。

  • 1890年(明治23年)5月、東京新報社に入社。怪我のため4ヶ月で退社。
  • 1891年(明治24年)1月、新潟・三条町米北教校に英語教師として赴任。米北教校は東本願寺の僧侶の機関学校で、三条町では唯一の中等教育を施す学校であった。
  • 1892年(明治25年)、三条で医師田原利と出会い、歯科医師になることを決意。
  • 1894年(明治27年)、三条を離れ上京、高山歯科医学院に入学。翌々明治28年、歯科医師免許を取得し、高山歯科医学院講師兼幹事に就任。

さて、ここで三条の米北教校と医師田原利が出てまいりました。

調べましょう。

米北教校・・・・これは新潟県三条市の真宗大谷派(東本願寺)越後三条教区ねっとに記録が有りました。

  • 1878年 明治11年: 越後国松山・曽根・脇之町の3支校を廃し、米北小教校へ合併する
  • 1896年 明治29年: 真宗中学条例を定め、三条の他12カ所に真宗中学を設置。経費は本山

血脇 守之助氏は1891年明治24年に米北教校に来ている訳で、中学が生れる前の形態が教校だったのでしょう(真宗大谷派では)

 

 2、ドクトル田原 利との出会い・援助

ここは全て東京歯科大学の血脇守之助のサイトに頼ります。とても詳しいです。

米北教校は東本願寺の僧侶の機関学校で,三条町では唯一の中等教育を施す学校であった。氷雪の三条で,新進の英語教師・血脇守之助は大歓迎を受け,・・・

田原氏との出会い: 田原はシンシナティのオハイオ医科大学(Medical College of Ohio)に学んだ新進気鋭の医師で,明治23年に帰国 明治24年に三条病院長として,250円という破格の高給で赴任してきた逸材であった。・・・

このころの血脇氏の想い: “他から憐みを受けて金を得るがごとき不確実な危い世渡りをするは,男子として嫌気すべきである”という福沢先生の訓諭にもかなっていた。・・・

英語を利用して歯科医学を学びたいという守之助の決意に,田原は賛意を表し,おおいに激励した。・・・

ドクトル田原 利は,若い守之助に経済的援助を続け,さまざまなアドバイスを与えた・・・

会津若松に出張診療をした守之助は,田原の友人・ドクトル渡部 鼎に会い,そこで野口清作を知った。・・・(渡部 鼎は、野口英世の左手を手術した人物)

 ここでリンクを一つ

血脇守之助が三条に滞在しなかったら東京歯科大学の血脇守之助は無かった(同窓会報第397号より)東京歯科大学同窓会

 ・・・血脇守之助が三条に滞在しなかったら,医聖野口英世は生まれていない・・・

・・・暗夜のような歯科医界を黎明の彼方に救いだせるのは,君のような高潔の士によって初めてなし得られるのだ・・・

 

3、野口英世とのこと

野口英世が東京に出てきてからの事が詳しく書いてありました。

Wikipedia血脇守之助 同 野口英世

1897年(明治30年)11月、野口清作(後の英世)が守之助を頼って会津から上京。野口の才能を認めた守之助は、高山歯科医学院の院長高山紀齋と交渉して4円の月給を7円にしてもらい、そのうち2円を野口に渡している。・・・このあと試験に臨んで済生学舎に入学したいという野口のために、高山紀齋に医院の経営を任せてもらうよう交渉し、学費・下宿代として月額15円を捻出している。

1899年(明治32年)10月 – 検疫官補の仕事ぶりが認められ、清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省より要請のあった、国際防疫班に選ばれる。しかし支度金96円を放蕩で使い果たしたため、資金を血脇に工面してもらい渡航

1922年(大正11年)、遠藤至六郎ら11人を伴って欧米を視察、パリ・ベルリン・ロサンゼルスを回る。・・・アメリカでは野口英世と再会、ともにハーディング大統領を表敬訪問している。このとき野口は往年の恩義を忘れず守之助を最大限に歓待、38日間の守之助の滞米中、それこそつきっきりで世話をやいた。

 最初に紹介したように、文学座の舞台『再びこの地を踏まず -異説・野口英世物語-』では血脇は野口にこう言います。

野口君は私に返さなくても良い、誰か別の人に返してくれ。

 

4、血脇守之助と東京歯科大学と日本歯科医学会

さて、このように新聞記者→ 教師→ 歯科医師 と歩いてきた血脇守之助氏はそのキャリアを生かし教育にも力を入れてゆきます。

1901年(明治34年)2月、高山歯科医学院を継承する形で東京歯科医学院を設立。東京歯科医学院は現在の東京歯科大学である。

1912年(明治45年)、日本歯科医学会の会長に就任(~1916年4月)。

1919年(大正8年)、日本聯合歯科医師会の会長に就任。

 今日、私たちが気軽に歯医者さんに行って治療を受けられるのも血脇守之助氏のおかげのようです。

 

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