日本遺産 信濃川流域の火焔型土器と雪国文化 とは何か

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文化庁が認定する日本遺産に新潟県から初めて「信濃川流域の火焔型土器と雪国文化」というものが選ばれた。

長い名前だが、これは文化庁の

「地域の歴史的な魅力や文化財をテーマにした文化・伝統のストーリーを認定し、観光客を地方に呼び込もう」

という観光戦略なのだそうだ。観光が狙いなのです。

 

産経新聞の記事を見てみましょう。

日本遺産に「信濃川流域の火焔型土器と雪国文化」

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記事より

・・・新潟、三条、長岡、十日町の4市と津南町が共同で提案した「『なんだ、コレは!』信濃川流域の火焔(かえん)型土器と雪国の文化」・・・

・・・ストーリーは、信濃川と冬の雪という環境の中で形作られた縄文文化を「日本文化の源流」と位置付け、特徴的な文化財として火焔型土器を・・・

・・・縄文時代から手つかずのまま残る景観があり「5千年前と変わらぬ風景を追体験できる」・・・

とのこと。

 

また、文化庁のサイトを見てみると

平成28年度「日本遺産(Japan Heritage)」認定概要(PDF)

 kaen

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≪「なんだ、コレは!」 信濃川流域の火焔型土器と雪国の文化≫
(ストーリーの概要)
日本一の大河・信濃川の流域は,8000 年前に気候が変わり,世界有数の雪国となった。この雪国から 5000 年前に誕生した「火焔型土器」は大仰な4つの突起があり,縄文土器を代表するものである。・・・

・・・火焔型土器を作った人々のムラは信濃川流域を中心としてあり,その規模と密集度は日本有数である。このムラの跡に佇めば,5000 年前と変わらぬ独特の景観を追体験できる。また,山・川・海の幸とその加工・保存の技術,アンギン,火焔型土器の技を継承するようなモノづくりなど,信濃川流域には縄文時代に起源をもつ文化が息づいている。・・・

 

とあります。

目次: 物語のキーになるのは・・・

  •  8000年前の気候変動で世界有数の雪国になった
  • 5000年前の縄文時代に火焔型土器が作られた。
  • それを作ったムラの跡では5000年前と変わらぬ景観を追体験できる。

 でしょうか

 

1、8000年前の気候変動で世界有数の雪国になった

8000年前の気象変動って何でしょ。

Wikipedia等で調べましたが8000年前の気象変動というのはなかなか見つけられず。

今から8000年前は紀元前6000年、その頃に見受けられるのは温暖化くらい。

これじゃ雪降らないじゃんと思うのは早計、温暖化が大雪の原因となった可能性もあります。

温暖化により海水面が上昇、対馬海峡が開き日本海に東シナ海から暖流が入って来て日本海側の大雪の環境が出来た事でしょうか。

もしくは日本海の海水温がただ単に上昇して同じく大雪の環境が出来たのでしょうか。

ただ単に寒いだけでは大雪にはなりません。

暖かい海から水蒸気がどんどん空に登り、それが冷やされれば大雪になるのです。

 

世界中の豪雪地帯は全て山脈の西側にあるようです。

NHK そなえる 防災「第1回  降る雪と積もった雪」 佐藤 威 (独)防災科学技術研究所雪氷防災研究センター長 理学博士

に詳しく書いてあります。

海に面していて水蒸気が延々と山脈に供給されているのでしょうね。

スカンジナビア半島西側は暖流のメキシコ湾流から水蒸気がガンガン来るのでしょうね。

それが山地に阻まれて山の斜面を登り、冷えて結晶・雪となる。

そういう流れですね。

 日本海はご存知 対馬海流という暖流がガンガン水蒸気を空に供給、シベリヤからの寒気団が上空に有って、三国山脈の斜面を駆け上がる水蒸気は大量の雪、豪雪となります。

温暖化という気象変動だったのかもしりませんが、どうなのでしょう。

 

2、5000年前の縄文時代に火焔型土器が作られた。

火焔型土器ってなによ。

Wikipedia 火焔型土器

・・・縄文時代中期を代表する縄文式土器の一種で、燃え上がる炎を象ったかのような形状の土器を指す通称名。火焔型土器とも呼ばれる。装飾的な縄文土器の中でも、特に装飾性豊かな土器である。・・・

・・・系統的に先行する様式は不明瞭といわれている。つまり、この様式が突然創造されたという奇妙さがある。・・・

 

リンク・・信濃川火焔土器街道

  • HP説明文: 火焔土器に代表される縄文をキーワードに、信濃川中流域の市町村との交流、連携、地域振興及び広域観光を推進します。
  • コンテンツ: 火焔土器ギャラリー、遺跡を調べる、博物館へ行こう、観光情報、など、このサイトで火焔型土器についてはばっちり調べられます。

 

 ほぼ縄文時代、約5,000年前に突如として火焔土器は作られ、そして消えていったようです。謎そのものですね。

いったい何なのでしょう、どういう事だったのでしょう?

これもストーリーの一部ですきっと。永遠の謎ですが。

 

3、それを作ったムラの跡では5000年前と変わらぬ景観を追体験できる。

変わらぬ景観ですね。

まずは地図で火焔型土器の発見された場所を見てみましょう。

以下のページが詳しいです。

 NPO笹山縄文の里  新潟県十日町市: 火焔型土器とは

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 不思議な分布ですね。

本当に新潟県内がほとんど、県内は信濃川流域が最も広い訳で、土器も信濃川流域で最も多く出土しています。

本来は全県のものでしょうが解り易く物語にするとなると信濃川でくくるのもなるほどと頷けます。

なにか、新潟県に火焔王朝でもあったかのような分布ですね。

 

で、5000年前の新潟県はどんなだったのでしょう。

 本物かどうか諸説ありますが以下のような地図があります。

この地図とともに越後平野形成のあらましが詳しく書いてあります。

新津の歴史どっと混む:太古の昔

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越後平野の成り立ち
約6 000年前ころに海水準が安定すると,潟湖の埋積が急速に進行し,約5 000年前ころには内陸部はほぼ堆積物によって埋め尽くされ,泥炭が堆積するような湿原環境に変わった。・・・(これ、尾瀬ヶ原みたいなものですかね、思い切り巨大な尾瀬ヶ原湿原)

寛治三年の新潟平野地図

今から約900年前、平安時代の地図である。新潟平野はすべてまだ海で、 新津や古津(津は港の意)は河口として記録されている。・・・

地図を見ると信濃川(当時は千曲川と呼ばれていたはず)は与板付近で越後湾に注いでいます。

長岡はまだ海の底ですね。

また、刈谷田川も五十嵐川も直接海に注いでいます。

この地図は江戸時代に「平安時代の越後の地図」として作成されたようです。

この時には海ではなくなっていたと思うのですが、人の渡れない湿地帯を平安時代も海という形であらわしたのかもしれません。

 

火焔式土器を作った人々は、平野部ではなく当然周辺の山で暮らしていた訳で、火焔土器は全て中山間地から発見されているようです。

すなわち、5000年前の景観となるとこの物語は平野部ではなく、中山間地の景観となります。

 

 

 では、その「ムラ」とはどこか

もちろん、土器の発見された場所、その土地の特徴的な景観になりますよね。

 

先に紹介した「新潟県火焔街道」の「火焔土器ギャラリー」

から、遺跡・住所とグーグルマップへリンクしておきます。

ぜひ、近くに興味の湧く景観を見つけてください。もちろん物産も^^

 

馬高遺跡 ( うまたか いせき )・・・馬高縄文館ホームページ|馬高・三十稲場遺跡 火焔土器が初めて発見された遺跡として全国的にも有名。

新潟県長岡市関原町

グーグルマップ

 

岩野原遺跡 ( いわのはら いせき )・・・高速道路の土砂採集のため遺跡は残っていないそうです。が、深沢付近の丘と関原は繋がっており、とにかく豊かな縄文文化が花開いた場所という感じです。

長岡市深沢町一丁目字岩野原

グーグルマップ ・・・一丁目 と書いてある付近の丘一帯と思います。

 

※上記遺跡の地図を広域にしてゆくと国営越後丘陵公園が見えてくると思います。この2つの遺跡と同じ山域です。この丘陵公園の親沢口に里山フィールドミュージアムがあります。すっかり気候は変わりましたが縄文時代のこの地域を感じるにはもってこいです。

というか、新潟県立歴史博物館が上記2つの遺跡の中間くらいに有ります。そこでじっくりと縄文を楽しむことがまずできます。

その後、この里山フィールドミュージアムに来る方が雰囲気を感じられるかもです。里山の小道が整備されていてアップダウンもありますが楽しいですよ。

 

 

笹山遺跡(ささやま いせき)・・・Wikipedia笹山遺跡・・縄文時代の土器として国宝に指定されている資料としては唯一で、新潟県唯一の国宝である(2013年8月現在)。

十日町市中条乙3081番地

グーグルマップ

 

 沖ノ原遺跡 (おきのはら いせき)・・・Wikipedia沖ノ原遺跡・・中央に広場を持つ直径約120メートルの環状集落であることが判明した。また、西南方向には水源となる自然湧水地点があり、竪穴式住居49基、長方形大型家屋3基、敷石住居1基の跡が確認されているが、その分布状況から少なくとも200基以上の家屋が存在していたと推定・・・

 津南町大字赤沢字沖ノ原

グーグルマップ

 

堂平遺跡 (どうだいら いせき)・・・苗場山麓ジオパーク・・・以下引用:「本遺跡から出土した別の火焔型土器は、現在大英博物館に展示されています。 そして、本遺跡では、推定径約50mの環状列石が見つかっており、それらは、清津川など周辺の河川から石を運んで作られたと考えられます。」引用以上

津南町大字中深見丁157番地外

グーグルマップ ・・・この付近の見事な河岸段丘が縄文からの景観でしょうか

 

 

道尻手遺跡 (どうじって いせき)・・・津南町文化財データベース・・・集落跡、竪穴住居跡・土坑・配石遺構

津南町大字下船渡甲6296番地外

グーグルマップ

 

秋葉遺跡(あきは いせき)・・・縄文時代の遺跡を調べる > 秋葉遺跡: 引用 「標高は20mほどです。縄文時代中・後期の遺跡」

新潟市秋葉区秋葉1、3丁目

グーグルマップ

 

大沢遺跡(おおさわ いせき)・・・縄文時代の遺跡を調べる > 大沢遺跡: 引用 「新潟砂丘を見下ろす角田山麓の高台にあります。遺跡の範囲は東西500m、南北350mに及び、標高30~50mにわたる高低差があります。」

新潟市西蒲区稲島

グーグルマップ ・・・この付近と思われます。

 

吉野屋遺跡(よしのやいせき)・・・三条市吉野屋遺跡・・・引用 吉野屋遺跡では土偶(どぐう)や三角形土製品(さんかくけいどせいひん)などのまつりの道具が多く出土していることから、まつりが行なわれた地域の中核的なムラであったと考えられます。

新潟県三条市吉野屋

グーグルマップ ・・・この付近と思われます。

 

長野遺跡(ながのいせき)・・・三条市長野遺跡・・・引用 長野遺跡のムラは、「火焔の国越後新潟」と会津を結ぶ縄文文化の交流の地と言えます。・・・絶景八木ヶ鼻を間近に臨み、粟ヶ岳、守門岳などの山並みに囲まれた長野ムラの人々は、三河川の合流点に近い狩猟採集に絶好のこの場所で、自然と共生し豊かに暮らしていたものと・・・

新潟県三条市長野

グーグルマップ ・・・この付近と思われます。

 

以上のように、地図で見ますと付近の様子が解ると思います。

「日本遺産 信濃川流域の火焔型土器と雪国文化」 様々な観光ルートが作られてゆくと思いますが、最近流行の自分で調べて企画して行く。そんな旅の参考になれば幸いです。

 

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