長岡藩はなぜ堀氏から牧野氏に替わった?長岡開府400年が近いのでど素人が考えてみる。

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江戸時代の初期に、越後長岡を治める大名は堀氏から牧野氏に変わるんですが

何故交代したのか長岡開府400年という事でど素人の妄想です。

すでに専門家は理由を分かっているのでしょうが・・・なかなかネット上に見つからなかったので素人の推理遊びです。

詳しい人ごめんなさい。

 

インデックス

1、江戸時代の大名と城

2、城の種類

3、堀氏の特長

4、牧野氏の特長

5、牧野氏が長岡城に来た理由

 

shiro

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1、江戸時代の大名と城

江戸時代ってどういう風に大名や城を配置していたんでしょ。

Wikipedia城主大名 によると

城主大名(じょうしゅだいみょう)とは、近世江戸時代における大名の格式の一つであり、大名家をその居地・居城で区別する国主(国持大名) – 準国主 – 城主 – 城主格 – 無城(陣屋)の5階級のうち、国許の屋敷に城が認められている大名をいう。

 ということです。

城を持てる大名って凄いのですね。

越後国で認められた城は以下

  • 村上藩 – 村上城・・・平山城、1598年から堀秀治与力の村上頼勝によって始められた近世城郭への改築工事は、堀直寄の時代に完成を見た。
  • 新発田藩 – 新発田城・・・現在の新潟県新発田市(越後国蒲原郡)にあった日本の城。・・・城の北部を流れる加治川を外堀に利用した平城
  • 長岡藩 – 長岡城・・・越後国長岡(現在の新潟県長岡市)にあった日本の城である。・・・江戸時代初期の1616年に、蔵王堂城にかえて堀直寄によって築かれ、のちは越後長岡藩7万4千石牧野家の居城として明治を迎えた。梯郭式の平城であった
  • 村松藩 – 村松城・・・村松城(むらまつじょう)は、かつて新潟県五泉市にあった日本の城。・・・寛永16年(1639年)に村上藩主(村上城主)だった堀直竒の次男・堀直時が蒲原郡3万石を分封され、その後の正保元年(1644年)に堀直吉によって陣屋が築かれた上で城下町が形成された。嘉永3年(1850年)九代藩主の堀直央が城主格拝命したことにより大改築が行われた。  平城村松城(五泉市村松)
  • 高田藩 – 高田城・・・高田城(たかだじょう)は、現在の新潟県上越市本城(もとしろ)町にあった日本の城である。・・・徳川家康の六男、松平忠輝の居城として天下普請によって造られた。城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗である。・・・高田城は、高田平野にある菩提ヶ原に築かれた平城である。

 

2、城の種類

城も、戦国時代の山城から徐々に平地に、交通の要衝に降りてきます。Wikipediaに頼ります。

 山城(やまじろ): 険阻な山を利用して築かれた城。・・・城は、防御に有利な地形に築くことが望ましく、険しい山はその条件を満たすが、住むには不便であり、・・・城主は、平時には麓に住民と共に住み、敵が来襲すると山上の城に立て籠もる、といった使い方がなされたようである。・・・春日山城、七尾城、小谷城など

平山城(ひらやまじろ): 平野の中にある山、丘陵等に築城された城のことをいう。・・・江戸城、大阪城、姫路城、仙台城、熊本城などの近世城郭の大多数がこれに当たり・・・

平城(ひらじろ): 平地に築かれた城をいう。・・・戦国時代後期になると、軍事拠点としての役割に加えて、政治的・経済的拠点としての役割も重視されるようになったため、交通や商業の要衝である平地に城を築くようになった。・・・名古屋城・駿府城・二条城・広島城など・・・

 山城には燃料調達(木材)が近いとか、飲料水があるとかメリットがあると思うのですが、物流が発達すると平地や川岸でも大丈夫になったんですね。

 

3、長岡と堀氏(直寄の系統)

堀直寄: 堀親良は甥で秀治の次男・鶴千代を自分の養子として蔵王堂城主にした。直寄は鶴千代を補佐し、鶴千代が早世して蔵王堂藩が廃藩になると坂戸と蔵王堂を兼務し5万石を領有した。蔵王堂城は長尾為景の弟・為重が築城した城だったが、信濃川の側で年々浸食が進んでいたので、上流の大島庄平潟原に築城の計画を立てる。この地が長岡と呼ばれるようになる。

越後坂戸藩主(坂戸城:山城)→信濃飯山藩主(飯山城:平山城)→越後長岡藩主(平城)→越後村上藩主(平山城)

 

4、牧野氏の特長

徳川家康の関東移封により、家臣団も関東に総引越し、牧野氏は上州に。

牧野忠成 (越後長岡藩初代)は大胡藩(おおごはん:上野国(現在の群馬県前橋市河原浜町)に存在した藩、大胡城はこちらを(平山城))から長峰藩(長峰)に移封(城の築城取り組むも完成せず)、続いて越後長岡に移封。

 もともとの領地、三河の牛久保は平野でした。

5、牧野氏が長岡城に来た理由

蔵王堂城は信濃川に直面しているため浸食がはげしく思うようにはかどらない。

→長岡に城を移す、その途中で堀氏は村上へ、代わって牧野氏が呼ばれる。

この理由ですが、当時流行り始めた平城で、堀氏は慣れていなく手間取った、牧野氏も経験が少なかったが何らかの利点があり牧野氏に任せた。

何らかの利点として考えられるのは

 1、牧野氏は堀氏より平城の知識が有った。(三河牛久保?)

 2、越後の河川交通の要所、譜代大名にしたかった。(堀氏は外様)

 3、牧野氏は物流・交通の知識が有った(牧野氏の城跡は鉄道の駅になったところが長岡以外にも有ったかと)

位でしょうか。

下図はスタンフォード大の明治測量地図です。

nagaoka

 いずれにしろ牧野氏と長岡は相性が良く、信濃川の水運を一手に握ったようです。

新潟港を牧野氏が抑えたのも、幕府の明確な意志が無ければ叶わなかったと思いますがいかがでしょうか。

 —以下、関連本やグッズ—

 長岡藩

 

 

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