夏目漱石没後100年、新潟県長岡市の市民が半藤一利さん風に酒と漬物で偲ぶ。

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夏目漱石と越後長岡。

ピンとこない方が多いと思います。

でも深い繋がりがあり、2016年12月8日に市民が集い偲びました。

 

以前にも書きましたが「野分」も含めてあらためて整理し漱石さんを偲びます。

soseki




 

長岡市と夏目漱石の関係は2つ

 

一つ目が子孫です

漱石さんの娘は松岡譲(長岡人)と結婚、孫娘も半藤一利(長岡人)と結婚しています。

夏目漱石没後100年を偲んだのは「慰霊と平和の花火」を上げる会。

半藤一利さんは父親の出身地岩野村に疎開(現長岡市越路地域)

長岡中学を卒業し東大に進学します。

長岡中学の卒業生に山本五十六がいます。

太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官、真珠湾攻撃も指揮しています。

当時の長岡市民にとってはもう大英雄ですね。

その半藤さんは長岡藩の河井継之助の小説「峠」を書いた司馬遼太郎と親友。

司馬さんが書きたくなかった書けなかったノモンハン以降の昭和史を半藤さんが書きます。

その中の「聯合艦隊司令長官山本五十六」と「日本のいちばん長い日」は映画となり全国で上映されました。

つまり、太平洋戦争開始の12月8日と、終戦の8月15日を半藤さんは著したのです。

長岡市は長岡空襲の8月1日と戦争の始まった12月8日に慰霊と平和の花火白菊を打ち上げています。

その半藤さんは夏目漱石の孫娘末利子さんと結婚しています。(末利子さんも長岡に疎開、長岡高校卒)

漱石の命日12月9日は12月8日の翌日、深い縁を感じます。

漱石も戦争を語っています。

 

夏目漱石の平和

日露戦争勝利で日本は一等国となり連合国側で参加した第一次世界大戦(1914年~1918年)の最中に漱石は亡くなります。その最後の年に随筆「点頭録」を表し第一次世界大戦に対する感想が述べられドイツやイギリスの文明を語り、また以下のようにも語っています。(青空文庫より…青空文庫は著作権消滅作品の文庫。)

「自分は常にあの弾丸とあの硝薬(せうやく)とあの毒瓦斯(ガス)とそれからあの肉団(にくだん)と鮮血とが、我々人類の未来の運命に、何(ど)の位の貢献をしてゐるのだらうかと考へる。さうして或(あ)る時は気の毒になる。或る時は悲しくなる。又或る時は馬鹿々々しくなる。最後に折々(をり/\)は滑稽さへ感ずる場合もあるといふ残酷な事実を自白せざるを得ない。」

 

 漱石と長岡の関係2つ目は

小説「野分」です。

長岡市山古志地域(旧山古志村)種苧原出身の教育者坂牧善辰は東京帝大で夏目漱石の1学年下。野分という小説は坂牧がモデルと言われています。

始めて赴任(ふにん)したのは越後(えちご)のどこかであった。越後は石油の名所である。学校の在(あ)る町を四五町隔てて大きな石油会社があった。学校のある町の繁栄は三分(ぶ)二以上この会社の御蔭(おかげ)で維持されている。町のものに取っては幾個の中学校よりもこの石油会社の方が遥(はるか)にありがたい。

 この文章、長岡市にみえます。

という2つの関係が漱石と越後長岡の間に有ります。

 

没後100年をどうやって偲ぶか

先にご紹介の半藤一利さんはお酒が好き(越後の血筋ですもんね)、最近出版された【「昭和史」を歩きながら考える】、第4章「歳時」のコラムの中の最後の2つ「雪の守るもの」「思い出の味」は故郷への思いが詰まっています。

内容は: 越路地域岩野村の父の実家に疎開して、炬燵に入って野菜を肴に熱燗を飲み女性へ思いを寄せる。
この女性はMさんと書いてあり、夏目漱石の孫娘の末利子さんだと思います。

ということで、日本酒と漬物で半藤さん流に偲ぶのが長岡らしいのではとなったのです。

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夏目家の糠味噌が半藤家に有るそうです。(食べられるところにも行ってきました:夏目家の糠床、越後長岡にも欲しいな。

その糠漬けで偲ぶ会をやれたらよかったのですが、それはまたの楽しみにしたいです。

 

 —以下、関連本やグッズ—

 アマゾン:夏目漱石

 「昭和史」を歩きながら考える:半藤一利

 十二月八日と八月十五日:半藤一利

 




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