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野口英世・杉本 鉞子・山本五十六はニューヨークで会っていたかも | こしくわ
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野口英世・杉本 鉞子・山本五十六はニューヨークで会っていたかも

三人とも同じ時期にニューヨークやアメリカ東海岸に居ました。

ニューヨークのロックフェラー医学研究所に野口英世、ベストセラー作家としてニューヨークに杉本 鉞子、マサチューセッツ州のハーバード大学に山本五十六。

会津と越後長岡、戊辰戦争で東軍の人達です。

 

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さあ、3人は会っていたでしょうか。

3人一緒の年表を作ってみます。(全てWikipedia参考)

1873年 杉本鉞子:新潟県古志郡長岡(現長岡市)に生まれる。
1876年 野口英世:11月9日福島県耶麻郡三ッ和村(現:猪苗代町)に生まれる

1884年 山本五十六:新潟県古志郡長岡本町(現在の長岡市)旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる。(杉本鉞子と11歳違い、野口英世とわずか8歳違いなんですね、五十六さん。)

1889年 野口英世:猪苗代高等小学校に入学
1891年 野口英世:手術費用を集める募金が行われ、左手の手術を受ける。医師を目指す。
1893年 野口英世:会津若松の会陽医院に書生として住み込みで働く

1894年 杉本鉞子:東京のメソジスト系のミッション・スクールの海岸女学校(青山学院の前身)と英和女学院で4年間英語を学ぶ
1896年 野口英世:上京。血脇から月額15円もの援助を受け、東京都文京区本郷の大成館に下宿する。
1897年 野口英世:21歳で医師免許を取得。高山高等歯科医学院の講師を務める他、順天堂医院で助手として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わる。
1898年 野口英世:北里柴三郎が所長の伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤め始める

同年  野口英世:野口清作から改名

1898年 杉本鉞子:結婚のため渡米

1899年 野口英世:横浜港検疫所検疫官補となりペスト患者を発見・診断。清国へ派遣される。
1900年 野口英世:義和団の乱により帰国、アメリカへ渡航、ペンシルベニア大学医学部で助手、蛇毒の研究で名をあげる。

1901年 山本五十六:海軍兵学校32期に200名中2番で入校。

1903年 野口英世:デンマーク、コペンハーゲンの血清研究所に留学

1904年 野口英世アメリカに戻り、ロックフェラー医学研究所に移籍。

1905年 山本五十六:少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」配属となり、5月27日の日本海海戦に参加する。左手の人差指と中指を欠損。

1909年 杉本鉞子:夫の事業の失敗で娘たちを連れて帰国

1909年 山本五十六アメリカに駐在

1911年 杉本鉞子:日本キリスト教婦人矯風会の矢嶋楫子の助手や普連土学園の英語教師として働きはじめる。

1911年 野口英世:アメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚する。 「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表。世界の医学界に名を知られることとなる。京都大学医学博士の学位を授与される。

1913年 野口英世:梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織内において確認し、これは、生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示したものであった。

1914年 野口英世:東京大学より理学博士の学位を授与。ロックフェラー医学研究所正員に昇進。この年のノーベル医学賞候補となる。

1915年 野口英世:15年振りに日本に帰国。母との再会。越後長岡でも長岡病院で講演。2度目のノーベル医学賞候補となる。

 1916年 杉本鉞子:鉞子の母親が亡くなる。再渡米ニューヨークで、原稿料を目当てに新聞・雑誌に投稿を続け、『武士の娘』を雑誌『アジア』に連載(フローレンスの助けも)

1916年 山本五十六:海軍大学校を卒業。虫垂炎のため故郷長岡で翌年6月頃まで休養

1918年 野口英世:黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される。

1919年 野口英世:ロックフェラー医学研究所からメキシコへ派遣。

1919年 山本五十六アメリカに駐在を拝命、ハーバード大学に留学

1920年 杉本鉞子:コロンビア大学から日本に関する講座を打診され、7年間日本語と日本文化の講座を持った。

※このころ野口英世と杉本鉞子がニューヨーク、山本五十六は同じ東海岸のマサチューセッツ州に滞在。

1920年 野口英世:リマ市滞在4日間にオロヤ熱およびペルー疣という2つの風土病の情報を入手。

1921年 山本五十六:帰国、軽巡洋艦「北上」副長

1925年 杉本鉞子『武士の娘』出版、人気を博しドイツ語、フランス語など7か国語に翻訳された。

1925年 山本五十六:駐米大使館付武官でワシントン

※このころ野口英世と杉本鉞子がニューヨーク、山本五十六は同じ東海岸のワシントンに滞在。

1927年 杉本鉞子:日本帰国。数冊の英語本をアメリカ向けに出版。

 1927年 野口英世:アフリカへ黄熱病研究のため出張。

1928年 山本五十六:帰国、軽巡洋艦「五十鈴」艦長となる。

1928年 野口英世:5月、アフリカにて黄熱病で死去(51歳)。

1929年 山本五十六:海軍少将に進級、ロンドン軍縮会議に次席随員として参加

1935年 山本五十六:故郷長岡で休養

1941年 太平洋戦争勃発

1943年 山本五十六:戦死 59歳(南太平洋)

1950年 杉本鉞子:肝臓がんのため76歳で没。

 

1925年頃は、野口英世は医師として何度もノーベル賞候補になった有名人。

杉本鉞子はベストセラー作家。

山本五十六は駐米大使館付武官。

何か重要なパーティーが有れば招待される3人だったと思います。

絶対に会っていますね。

 

長岡と会津の話に花が咲いたものと思います。

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kosikosi :