半年以上三国峠・清水峠なんて通れない、鉄道前の川舟や峠を利用した江戸・関西交易。小千谷・薬師峠・片貝

越後国から江戸に物産を運ぶには?

現代人なら当然上越線や関越道のルートが頭に浮かぶでしょうが

夏・秋はともかく冬・春は不可能でしょう。

下図を見て下さい。

越後山脈を越えるのは至難の技

三国峠は標高1043m、清水峠に至っては1400mを越え、いつまでも雪を被って越後平野にその姿を見せる粟ヶ岳(1,293m)よりもなんと高いのです。

雪無しの峠越えは7月8月9月10月11月の5ヶ月くらいなのでは無いでしょうか?

しかも1,000mの山登りはきついです。

司馬遼太郎が越後長岡藩の河井継之助を描いた「」が有名です。

小説では上越国境の峠を越えたことになっていますが実際は碓氷峠(上信国境、信越線の通る峠)を越えていたらしい。越後山脈越えなどよほどの事情がなければしなかったのではないでしょうか、上杉謙信が関東進出のルートに使ったのはよほどの事情、武田信玄の碓氷峠付近支配のせいだと思います。

 

 

越後から江戸へのルートは信越線ルートが一般的だったようです。

ですので、小千谷港が栄えたのも魚沼の物産(からむし・越後上布など)を柏崎に運び高田に運び江戸や関西に送る重要港だったからではないかと思います。

小千谷港から柏崎に運ぶにも峠の海抜や積雪が大きく影響したものと思われます。

  • 小千谷→小国→柏崎 最短ルート(現代はこのルート)・・・桐沢峠が高すぎて雪解けも遅く、何よりも山登りがきつい。
  • 小千谷→塚野山→柏崎・・・魚沼街道メインルート。
  • 小千谷→片貝→塚野山→柏崎・・・雪解けも早く海抜も低い、しかし少し遠回り

峠等の標高

 

しかし、同じ片貝でも沢道と尾根道では雪解けが違います。

 

薬師峠4月上旬、雪で通行不可

 

下記は片貝谷の道、雪で通行不可(4月上旬)

 

下記は片貝尾根や岡の道、雪が少なく通行可能(4月上旬)

 

越後は地滑りも多く、毎年夏道も変化していたことと思います。

藩の収益に直結する街道・峠道は雪や斜度など考慮したルートが慎重に選ばれていたのではないでしょうか?

片貝ルートは少し遠回りになりますが1ヶ月近く早く馬や荷車が通行できた可能性が高く、冬の間に作られた製品をいち早く高値で市場に出す重要ルートだったのではないでしょうか?(冬の雪道でも通行はあったようで、北越雪府には遭難のお話が載っています)

小千谷の領主会津藩、片貝の半分の領主の長岡藩の競う場所だったのかもしれません。

 

現代と異なる交通事情を考えると地域の成り立ちも見えて面白いとこです。

昔の街道は実に合理的に作られていて鉄道もそれに従ったのことからもわかります。

信越線が小千谷や片貝を通らなかったのはそういう観点から見ても小千谷と片貝にとって実に大きな不幸の出来事でした。