小千谷信濃川右岸の三国街道を歩く、対岸小千谷港を遠望す。

このエントリーをはてなブックマークに追加

小千谷はとにかく交通の要衝で重要な場所でした。

特に江戸時代から明治初期は栄に栄えた町だったようです。

小千谷は河戸(川の港)があり、魚沼(信濃川・魚野川水系)からの船が行き交い柏崎への中継点として極めて大事な仕事をしていました。

もちろん柏崎へは魚沼街道を通り越後上布、小千谷縮を運んで、京・大阪はもちろん、年の半分は使えない三国峠や清水峠を使わずに高田-信州-上州経由で江戸にも送っていたようです。信越本線のルートですね。鉄道は理にかなったルートしか通せません。勾配が緩やかで積雪の少ないルートは昔の街道であり、鉄道にも採用されました。

信越本線が魚沼街道と同じ塚山を通ることになったのも同じ理由だと思います。あそこが一番山が低く川も越えやすく小千谷(魚沼)にも片貝にも近く、長岡へのルートも可能、何よりも大きなトンネルは1本でよく、信濃川も一番狭い(鉄橋は短くて済む)ルート、金のかからないルートなのです。

 

で、小千谷港には上流から来た船荷の荷揚げのほかにもう一つ大事な仕事がありました。対岸への渡し船、大街道三国街道への渡し船です。

 

その小千谷の三国街道を歩きながらいろいろ見て来ました。

 

下は小千谷を通る旧三国街道の地図です。AからGまで歩きました。

 

 

A1、上越線と平行に走る旧国道17号線から右に曲がります。

 

A2、この曲がり角には高の井酒造と味噌・醤油の山崎醸造があります。この街道途中に、街道から少しだけ離れますがもう一つ新潟銘醸という酒蔵が有ります。

越後三島の三国街道といい、摂田屋附近の三国街道といい大きな街道沿いに酒蔵や醸造会社はあるようです。やはり輸送(原料・製品)の関係だったのでしょうか。それとも金持ちは街道沿い・宿場町に居たためでしょうか。

 

AからBへの途中狭い路ですが旧三国街道が現在も道路として使われています。

 

B地点、JR小千谷駅から旭橋を経て中心街へ向かう道路と旧三国街道の交差点から東京方面を見る。

 

C地点、庚申塚と奥に神社

 

 

C地点2、十二神社、たしか十二神社は水に関わる神社だったかと記憶。神社に掲示された御神徳には「農耕・水・商売繁盛・酒造」となっています。この通りに酒蔵2軒、味噌・醤油醸造1軒があります。

 

C地点3、神社の下手直下に清水が湧き出ています。さすが水の神様です(水場だったから神社が出来たのでしょうが…)。その昔は街道沿いの水場として旅人に重宝されたのではないでしょうか。

 

D地点、神社付近から下ってゆくと信濃川堤防に出ます。

下記は少し上流を見たところ

対岸(信濃川左岸)河岸段丘の写真、崖がつづきます。こんなところにはとても港は作れません。

 

D地点2、対岸正面を見るとちょうど小千谷港の付近、ということはおそらくこの付近に三国街道側の船着き場があったのではないでしょうか。

対岸の地形は下のようになっています。

湯殿川の周りが低くなっていて容易に川に降りることができ、荷揚げも簡単、街も形成されたのが解ります。

実に理想的な地形。その昔の小千谷はこの低地・谷筋に形成されました。

 

特殊地形の小千谷港の丁度対岸に清水が湧く十二神社がある訳で、さらにそこから少し山に登ると山寺です(このページの地図参照、小千谷駅の裏手です)。山寺は、今現在対岸の小千谷港跡のある谷の中に有ります五智院が有った場所です。

山寺にあった五智院は円弧のような三国街道と対岸の小千谷港を管理しやすい場所では無かったかと思います。

 

 

 

E地点、ここで旧三国街道は左に曲がり、山の方に向かいます。

 

F地点、旧17号線にぶつかります。

 

F地点2、お地蔵さんが居ました。

台座には「右ハ ながおか  左ハ おぢや」とありました。

円弧のような遠回りの三国街道にショートカットする道があったのかもしれません、ちょうどこの上を走る旧国道17号線の道筋でしょうか。

 

F地点3、状況からみてこのトンネルが旧三国街道でしょうか。

もちろん、行きます。

 

G地点手前、旧国道17号線の下のトンネルを抜けると道が続いています。

これが旧三国街道で間違いなさそうです。

 

G地点、上越線と旧17号線のクロスする地点で一旦道は途切れて、その先にも旧17号線の脇に沿って旧三国街道が続いているようでした。

 

越後史の中でも大事な歴史を歩ける街道だと思うのですが、少し残念

その昔、信濃川のこちら側は薭生(ひう)という村でした。

対岸の小千谷との間にあった渡し船がどのようなものだったのか、三国街道との繋がりはどうだったのか興味深いところですが、何の立札も無く、更にはここが三国街道であったことを示すものも見当たりませんでした。

十二神社と酒蔵2つと味噌・醤油醸造会社と対岸の小千谷発祥の理由が良く解る地形の俯瞰、今も生活道路として使われている街道。

五智院が戦に巻き込まれ対岸小千谷に移転したとか、歴史も色々ありそうです。さらに、ここは小千谷市東山や長岡市山古志地域の村々(二十村郷)にとっても柏崎への、関西・江戸への通り道だった訳でどのような歴史があるのか興味は尽きません。

また、戊辰戦争(北越戦争)で西軍はおそらくここで渡河して朝日山や榎峠の激戦になったのでしょうし。史蹟はいっぱいありそうなのですが。

小千谷港には港跡や陣屋跡に石碑が有りました。

是非対岸側も作ってもらいたいものです。

 

 

Print Friendly, PDF & Email

小千谷信濃川右岸の三国街道を歩く、対岸小千谷港を遠望す。」への3件のフィードバック

  1. この記事で三国街道とされているAからFは、三国街道ではありません。
    三国街道で唯一合っているのは
    ●F地点2、お地蔵さんが居ました。
    台座には「右ハ ながおか  左ハ おぢや」
    と記述してある部分です。
    お地蔵さんの位置は、「上殿の追分」と言い三国街道の分岐点です。
    「右ハながおか」とは三国街道のことで、山寺に向かい現在の小千谷駅の裏にあたる東側の山麓を通りひ生本村に向かいます。
    「左ハおぢや」は小千谷宿への分岐で「元中子の渡し」から小千谷河戸そして、魚沼街道や与板道に向かう道筋になます。

  2. 追記。
    「何の立札も無く、更にはここが三国街道であったことを示すものも見当たりませんでした。」とありますが、お地蔵さまの小屋には「追分地蔵由来」という昭和62年に木津町内が作成した版があります。

    こしくわさんの記述を見る限り、街道について、専門書などの記述によるものでなく、思い込みで街道と勘違いされて道筋が多いようです。
    三国街道や他の街道についての詳しい説明が『図説 新潟県の街道』(郷土出版社)にあります。豪華本で分かりやすいです。図書館などにも置いてありますので、一度ご覧になったら良いかと思います。

    A2酒蔵や醸造会社について。
    現在地での歴史は浅く、昭和初期からです。酒蔵自体の歴史は少し古く、対岸の別の地から移転しています。
    立地条件は、時代が異なりますので、三国街道との繋がりはなく、旧国道17号線と上越線が関係しているでしょう。

    • ありがとうございました、『図説 新潟県の街道』!これですね。拝見します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA