Wikipediaの「流罪」に主な流人リストが有りましたので、その人数(有名な流刑人)をあげます。
それから北国の流刑地佐渡と越後を見てみます。
- 全国の主な流刑地と流刑者
- 佐渡の流刑者
- 越後の流刑者
Wikipediaには、
全国が書かれていましたので、わかり易く5人以上の国を挙げてみます。
さらにその中で飛び切りの有名人の名前をあげておきます(私の主観)
1、全国の主な流刑地。有名人5人以上もしくは有名流刑者の地をピックアップ
出羽国2人・・・沢庵宗彭
越後5人・・・親鸞
常陸8人・・・
甲斐5人・・・
越前5人・・・
紀伊国・・・真田信繁
阿波7人・・・
伊予5人・・・
土佐23人・・・法然
薩摩9人・・・
沖永良部島・・・西郷隆盛
※地図は地理院地図 電子国土Webから
伊豆って凄いですね、陸続きでしかも隔離・管理しやすかったのでしょうか。
半島の根元がぎゅっと狭まっていますからね。
※コメントありがとうございました、伊豆は伊豆諸島の事だそうです。勘違いでした。
近くの房総半島は根本が広すぎますから向かなかったのかな?
能登も理想的な気がしますが流罪者は少ないようです。
さて、北国の流刑地 佐渡と越後を細かく見てみましょう。
2、佐渡の流刑者
越後を通って佐渡のゆきますから、多くの流人は越後にも足跡を残しています。
流人はどのような影響を佐渡・越後に与えた可能性があるのか
文覚上人(もんがくしょうにん)・・・平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧
順徳上皇(じゅんとくじょうこう)・・・鎌倉時代の第84代天皇、承久の変(1221)で24歳の若さで配流
日蓮聖人(にちれんしょうにん)・・・鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教の十三宗のひとつ日蓮宗 (法華宗) の宗祖。「立正安国論」が鎌倉幕府の怒りに触れ、文永8年(1271)に配流
京極為兼(きょうごくためかね)・・・鎌倉時代後期の公卿・歌人。、持明院統側公家として皇統の迭立に関与したことから、永仁6年(1298年)に佐渡国に配流
日野資朝(ひのすけとも)・・・鎌倉時代後期の公卿。権大納言・日野俊光の次男。鎌倉幕府の朝廷監視機関である六波羅探題に倒幕計画が察知され、日野俊基らとともに捕縛されて鎌倉へ送られ、佐渡島へ流罪。
世阿弥(ぜあみ)・・・父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽(申楽とも。現在の能)を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。
小倉実起(おぐらさねおき)・・・江戸時代初期の公卿。勅命違反として息子の公連・季伴と共に佐渡に流罪となった(小倉事件)
3、越後の流刑者
源成雅(みなもと の なりまさ)・・・平安時代後期の公家。保元の乱の際には、頼長とともに崇徳上皇方に参加する。上皇方が後白河天皇方に敗れると、出家(法名は蓮浄)し恭順の意を示すが、赦されず越後国に配流
親鸞聖人(しんらんしょうにん)・・・鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる。法然ひきいる吉水教団が既存仏教教団より弾圧され、後鳥羽上皇によって専修念仏の停止(ちょうじ)と、法然の門弟4人の死罪、法然と親鸞ら中心的な門弟7人が流罪となった承元の法難にて親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流。
親鸞聖人は越後に大きな足跡を残されている。
- 御上陸の地・・・聖人は関東へ向かわれるまでの約7年間を越後で過ごされました。 恵信尼公との結婚、そして越後での生活は、親鸞聖人の思想に深く影響しているとされています。
- 七不思議・・・新潟市付近の親鸞様七不思議
- ご旧跡めぐり・・・阿賀野市周辺に多い
今出川 晴季(いまでがわ はるすえ)・・・戦国時代から江戸時代前期にかけての公卿。秀吉に関白任官を持ちかけて朝廷との調整役を務めたのが晴季。豊臣秀次に嫁がせていたため、文禄4年(1595年)8月に秀次が謀反の疑いで自害を命じられ、晴季もこれに連座して越後国に流罪となった。
以上、国政・中央で超一流の人物が佐渡や越後にやって来たのです。
佐渡や越後の人達は大いに興奮・お話を聞き勉強をしようとしたことに違い有りません。
流罪という仕組みは興味深いです。
調べたい方は
「伊豆」は、「伊豆半島」ではなく「伊豆諸島」のことです。
有難うございました、訂正させてもらいました。