「こっ、これが本当の土砂降りんがらけ。」
2004年7月13日(火曜日)
S川先生が先日の「Gの森国際フォーラム」のまとめ作製用資料を車で持って来られたというので道路まで受け取りに出たが、スッゴイ雨で車のドアのウインドウすら開けられない。
数分後ほんの少し弱まったので急いでウインドウを下げてもらい資料の封筒をもらう。
滝のような雨音で声なぞ全く聞こえない、お互い挨拶動作・口の動きを確認して別れた。
この間私のズボンの膝から下はびしょびしょ、傘は上半身を少し守っているだけ。
後に「平成16年7月新潟・福島豪雨」または「7.13水害」と呼ばれる水害になる直前の出来事。この直後くらいに遠く離れたN町で刈谷田川の堤防が決壊し大災害になった。
それから数日後、未だにネット上にはその町の役場による災害情報どころかホームページすらが無かった。
どうやら機材が水に浸かってWeb発信機能を失ったようだ。1階に器材を設置していたのだ、1階に重要な機材を設置して大変な事になる。こういう教訓は既にこの水害で確認されていたのだが、その後も東日本大震災で原発の電源がやられ。常総市でも発電機がやられ、岩泉町だったかで平屋建ての老人ホームが悲惨な事になった。近年文科省と防災科研が情報の共有化のシステムをか開発したが各市町村の積極的な採用がなされるか。
…行政の人達は出来ないだろうな…。担当が2~3年で変わるような仕組みではせっかくの優秀なシステムでも防災が上手くいくような気はしない。
さて水害の話しにもどる。行政のサイトが動かないとマスコミの大雑把な情報しか手に入らないのだ。どうしても町の・現地の状況が解らない。
こういう時は近隣市町村や県が助けてくれるのかと思った(素人発想)が、動きは何日経っても見えない。そう言う関係ではない、市町村は独立しているのだ。
地域資源発掘で何回も通っていた地域なので知っている人が多いので個人的に心配なのだが、それよりも遠くの親戚や友人たちの心配はとてつもないものと想像できる。
こうなったらうちらがやるしかないのか?情報発信用のブログを一つ立ち上げて災害対策本部がある場所へ向かい災害情報発信を提案した。
しかし「インターネットで情報を発信したらますます問合せ電話が増えて大変なことになる」と断わられる。
これに対し「だからこそ、よくある質問とその答えを掲示し、こういう状況なので本部への電話は急ぎでない限り控えていただきたい旨を書くべきです」と提案するも却下。すごすごと帰り始めた。
数分歩いて、やはり町内の知人たちの事が頭に浮かび再度お願いしようと、更にはこういう時にネットを活用できないでどうするのだ、インターネットの可能性や思想に関する文集を読みまくっていた私はここでこそやらなくてはならない!と切換え、引き返す。
するとなんという運の良いことか災害対策本部に行く手前に若い職員がいて、先ほどの願いの主旨を知っていたようで、「ぜひ情報を流してください。ただし、役場の依頼ではなく、あくまでも皆さんの責任でお願いします。」と言われる。この時の選択の先は直ぐにネットと防災の未来に繋がっていた。
自分達の責任で…と言う部分で少し躊躇したが「今最優先すべきことは遠くの親戚知人の人達に今の状況を報せること」責任も何も報せることがまず大事、そう割り切りそのような形で災害対策本部や役場からの情報をブログで発信し始め、以降継続的に流した。
時系列に並び・カテゴリ分けされたブログというシステムが災害情報でうごきはじめた。
夢中でやっていて当時は全く気付かなかったのですが、ともに補い合ってやること、協働がそこに有った事に気付いた。
私は正義感やなんやらに夢中になって大きく勘違いをしていたのだ。
役場には役場の事情がある。何処の馬の骨かも知らない者においそれと情報発信を任せる訳にはいかないのだ。
後で聞いた事だがうっかり任せて後で高額な請求をされることもあるらしい。私みたいな不審者が行けば警戒するのは当然。
つまり相手の事情を理解し、不安な点を解消してあげることがこちらからお願いする協働には不可欠であるということ。
「私の責任で全部やります」 と言ってみたがそんな事態は発生したのか?
実は有った。被災地の写真、絶対にどこの写真か解らないようにトリミングして(部分を抜き出して)掲載した写真に「我が家の写真です、つらくなるので掲載しないで下さい」と、クレームがついたのです。こういう事は今日のWeb上の災害写真でも繰り返されている事です。
私が日本第1号クレームだったかもしれません、情け無し。
即削除してお詫びの文を掲載しました。
で、効果はあったのか?週末土日から始めた情報発信のアクセス数は月末までの約10日間で約2万、当時のインターネット環境は現在の数十分の一、唯一のN町災害情報ブログ、かなりのアクセスがあった、近郊から遠方の親戚友人へ情報は伝わっていたのでした。
私達のミッションはある程度成功です。
「相手の事情を理解し、不安な点を解消してあげる」ことが協働的な事もそうでない事でも、物事を進める上でとても大事なのでした。
初めての災害ボランティアセンターを立ち上げるときにはまた異なる力(寄ってたかって押して進める)が必用だったのですが内緒です。