街道をゆくに見る武士と鉄「三浦半島記」

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司馬遼太郎の街道をゆく

こんなに楽しいシリーズ本が他にあるでしょうか。

街道をゆく42 は全編三浦半島記です。

街道をゆく 42 三浦半島記 (朝日文庫) (アマゾンへ)

 miura

武士の発生から入っています。さっそく司馬史観が夢のように広がります。

いろいろ、司馬遼太郎の小説には作り物が多いと言われても居ますが、発掘されないものを勘定に入れない学者たちの作る物語よりも、その部分を思いめぐらし埋める小説家の方がまことの歴史に近いと思います。

特に司馬さんの物語は「本当はそうだったろうな」と思わせるものが多い。

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P12

  • 12世紀末まで公家から見れば武士は庶民、ときには奴婢に思われていた。
  • 律令は公地公民、農地・農民は国家の所有
  • 例外として荘園という私領が公認されたが、公家や有力寺社の私領である。

P13

  • 農民は国の農民と荘園の農民にわかれた。
  • さらに墾田の農民ができたが、公家や有力寺社に献上して自分で開拓した農場の管理人になった。
  • それが武士である

P14

  •  しかし公家や有力寺社がへそを曲げると追い出される、農民武士は一所懸命に管理権を守った。
  • その心配は引き受けようというものが現れた。主従でもなく、きらびやかに言えば棟梁。
  • 頼朝もその父もその棟梁であった。

P31-32

  • 東国武士には土地問題の民事裁判機関が必要だった。
  • 頼朝は幕府を作り公文所(政所・鎌倉内の訴訟をあつかう)と問注所(諸国の訴訟をあつかう)を作った。

 

 P62-63

  • 介(すけ)・・・現地の有力者に与えた官職、国々の次官である。

P75-76

  • 頼朝と同じ清和源氏(摂津の国多田庄)の源頼政は平家政権で従三位にいたが、以仁王に謀反を持ちかけ天下の源氏に挙兵を呼びかけさせた。宇治で両名は平氏により死んだ。頼朝は三か月後に挙兵、「以仁王は生きておわす」。・・・編集者:越後小国に残る伝説、以仁王が越後小国に逃れてきた。これは、当時から政治に利用されていたようである。越後小国は源頼政の肉親の領地、清和源氏の地である。

P101

  • 中国では夷てきの地に遠征した大将軍がその地に行政府を開くことが出来た。それを日本に翻訳し理論を与えたのは大江広元であったかもしれない。・・・編集者:さて大江氏は最初の武士政権を作り、はるか時代は進み大江は毛利・長州藩になり江戸幕府を倒し武士政権を閉じたのである。なんという壮大な歴史なのか。
  • その将軍を後白河上皇が許さなかったが3月に亡くなって7月に頼朝は征夷大将軍に任ぜられた。・・・編集者:日本は遥か昔から法治国家だったのですね。

P268-269

  • 関東は律令を嫌ったが平家は公家になり律令になった。よって頼朝が担がれた。
  • 義経が京で官位を貰ったのは律令だった。

 

編集者:鎌倉は、もはや改革なくしては成り立たない関東の武士たちの願い「公正な裁判をしてくれる地」だったんですね。

 

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