中越の川の港「河戸」があった土地がやはり栄えた、地図化

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小千谷市の片貝町が最も海抜の低い峠の麓に栄えていたのに地図を見ていて気づきました。

とにかく柏崎から信濃川・内陸の水運系に物資を渡すには(もちろん逆も)柏崎と小国間の八石山や小国と小千谷間の関田山脈っからの山並み(信州斑尾山から続く)を避け、馬も人も(荷車も?)最も通り易い道・低い峠などを選ぶ必要が有ったわけで。

その一つが、北条→広田→塚野山→東谷→片貝だったのではないかと。

学校区も昔は山の向こうの同士の片貝と塚山が一緒だったわけで太い街道で繋がっていたとみても良いのでは。

 

で、その街道の繋がりの川の港の話し。

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越後国内というか信濃川系の川の港は「河戸」と呼ぶようです。

魚沼の中心地十日町市や南魚沼市六日町は舟運の最上流だったようです。

もちろん長岡市は舟運で栄えた町。

信濃川の支流の柿川は長岡城の堀も兼ねていたような城と町に隣接した川、そこに6つの河戸が並んでいたわけで、考えてみると新潟港も江戸時代の大半は長岡藩管轄。

儲けに儲けたきがします、長岡。

色々探すと、渋海川も小国まで船が行っていたようです。

主な河戸を地図化してみました。

信濃川の河戸の記述が今現在ネット上に見当たらずに不明な点はあげてありません。

 map2

(国土地理院地図 電子国土Web利用)

 

参考サイト

■ われら信濃川を愛する「信濃川自由大学」
第5回 信濃川がつなぎ育てた地場産業 ~信濃川の舟運を中心に~
http://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/367/jiyudaigaku/kekka/5/5.pdf

上流の方は魚野川経由で六日町まで、

長岡までは三条の舟とか長岡の舟で積み上るのですが、長岡では必ず魚沼の舟
に積み換える、これは川の広さ、それから急流とゆったりした流れの違いというようなこと
がありますし、決まりもありまして、だいたい魚沼の舟が長岡から積んでいくと、そして
日町で下して、そこからは背に担いでいくとか、馬を使うとか

信濃川の方は現在の十日町まで、これも実は十日町のすぐ上流に水沢という
村がありましたので、その水沢までは荷物を上げたらしいです。

そのほか支流としては、渋海川の方も
今の小国谷の中流あたりまでは小国の方の舟がありましたし、

十日町から飯山あたりまでの間は陸送ということになったと思います。

殿様が江戸から参勤交代で戻ってくるような場合、六日町から船に乗ってきますけれども、渡里町河戸で下りる

 

1.信濃川の歴史 (国土交通省)
http://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/84035/84035-2_p1.html

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信濃川は食料や燃料、日用雑貨などを舟で運ぶための重要な運送路としても利用されてきました。信濃川の舟運が最も栄えた江戸時代において舟運の主な役割は年貢米の川下げであり、商人の積み荷は、そのあい間にだけにしか許されていませんでした。また、米の輸送は「湊定法」によって義務づけられ、舟運以外には一切許されていませんでした。

長岡船道
 江戸時代における越後の主要通船系統は信濃川筋では、「長岡船道」と呼ばれる船便が長岡と新潟の間を航行しており、長岡より上流の十日町には「妻有船道」・六日町方面には「上田船道」や「蒲原船道」「加茂川船道」などがありました。上流の山岳地帯でとれた山の幸を下流に運び、下流でとった海のものを上流に運ぶ物流や、大量の年貢米を運ばなければならない幕府や藩にとって、信濃川の舟運は貴重な存在となっており、信濃川の舟運の中心であった「長岡船道」という一大組織は長岡~新潟間の信濃川の舟運を独占して大きな利益を上げ、長岡の発展につながりました。
 長岡船道で信濃川を下った荷物は米、たばこ、織物、下駄、薪などが多く、逆に新潟から運ばれたのは塩、茶、鮭、鱒、ござなどで海産物が中心でした。塩や海産物は信州まで送られていました。

 長岡はまさにこの長岡船道の街であり、上流との中継点でもあったのですね。

 

国土交通省北陸地方整備局 信濃川河川事務所
長岡船道
http://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/shinanogawa_info/53tugi/20/2002.htm

内川河戸と呼ぶ船着場は内川(柿川)上流の草生津から内川出口の蔵王の間に置かれた。安政年間(1854~59)には安哲・重右衛門・呉服町・裏四ノ町・渡里町・上田町六カ所で、船着場ごとに接岸する船が決められていた。

 柿川は船着き場がいくつも有った川なんですね。その歴史が解る場所は無いような気がしますがどうなんでしょう。

 

六日町船着場跡
http://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/shinanogawa_info/53tugi/78/7801.htm

堀之内、小出、浦佐、六日町は船持ちが集まる河戸

 

小千谷地域と近隣のまち・むらを結ぶ
江戸時代のむら村-
http://www1.ocn.ne.jp/~odiya/home2/bunkazai/rekishi/rekishi02.html

 高田道・信州街道(善光寺への道)・長岡道などの街道が通り、千曲川(信濃川)の川岸には船改め番所がおかれるなど水陸交通の要衝であった。

 戊辰戦争時に西軍はここを押さえました。

 

東川口 (長岡市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B7%9D%E5%8F%A3_(%E9%95%B7%E5%B2%A1%E5%B8%82)

水運においては、六日町から川口に至る上田船道が整備され、船方仲間が形成されていた。河岸にあたる河戸が六日町・浦佐・小出島・堀之内・川口に置かれ、下り荷として木呂・ぼい・木炭・青苧・蝋実・山菜・農産物などが、上り荷に塩・海産物・紙・煙草・茶・陶器・酒などの日用品が運ばれていた。このほか、船方仲間は1698年(元禄11年)には船会所取り決めにより魚沼郡の蔵米川下げにあたったほか、安永年間(1775年頃)には栃尾の蔵米川下げも請け負っていた

 信濃川・魚野川合流点、陸路水路共に重要な役割だったようです。

現在の大きな町は水運と陸運の便利な場所に栄えていたんですね。

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