越後の長岡藩のガトリング砲の行方は?今どこに?探しましょう。

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戊辰戦争の激戦、北越戦争(1868年)で使われた最新兵器のガトリング砲はその後どこに行ったか明らかになっていない。

写真は新潟県長岡市の河井継之助記念館




 

ガトリング砲(ガトリング銃・ガトリングガン:wikipedia)

1861年にアメリカ合衆国の発明家リチャード・ジョーダン・ガトリングによって製品化された最初期の機関銃。

同、日本におけるガトリング砲(長岡藩についての記述:wikipedia)

河井継之助が率いた長岡藩兵が、ガトリング砲を実戦で使用した記録がある。

グーグル画像検索:ガトリング砲

るろうに剣心(作者の和月さんは長岡出身)に出てくるグーグル画像検索:ガトリング砲

 

世界の兵器使用の歴史上でも重要な出来事だと思います。

もし完全体で残っていたら素晴らしいことだと思いますし、朽ちていても貴重な物には変わりないと思います。一部分だけでもどこかに無いでしょうかね。

ガトリング砲はどこにいった?

謎です。

 

でもネットから探してみます。

考察しているページがありました。

五月一日(ページタイトル・作者不明、ページを遡ると京都付近から越後長岡や只見に遥々来られたようです。)

このページ内にてガトリング砲の経過それと行方についての考察がされています。

ぜひお読みください。

一部引用させてもらいます。

一説には長岡城の堀に沈めたとか、長岡から会津へ移動する際に八十里峠のどこかの池に沈めたとかいう話があります。

この話は多くの人が知っているところ、筆者はそこから旧幕府艦隊の動きも含めて多くの推理をしています。お読みください。

 

長岡城は現在の長岡駅を中心としてあり、駅前の大手通に新市役所である市民ホール「アオーレ長岡(2012年竣工)」の工事の際に地下階を作る際に丁度堀の有った場所も含まれるためガトリング砲が出てくるのではないかと一部期待する人もいました。

とにかく最新鋭の兵器、敵に渡してはならないとどこかで処分したか絶対わからない場所に保管したか?

何の記述も証言も無いようです、知る限りでは。

 

さて、戊辰戦争のミステリーです。

 

みんなで探してみませんか?

 

そこでガトリング砲の移動が考えられる地図

(改修中)

 

先のWikipediaに書かれているのが

横浜にあったファーブルブランド商社(スネル兄弟ともいわれている)からガトリング砲を購入したと伝えられている。

このことから新潟港に届けられそこから長岡藩の船で直接長岡城まで運んだのではないでしょうか。

長岡城二度目の落城(計三度目ですが)の時までガトリング砲はあったようですので(ここ大事ですが、どうなんでしょ)そして戦の最中に太ももに被弾したようです(長岡市新町二丁目の国道352号沿が撃たれた場所)。そこから昌福寺、見附、文納、葎谷を経由し、吉ヶ平(三条市下田)そして八十里越えに向かったようです。

高価な最新兵器、会津に落ち延びる際に運んだか、相手に渡る前にどこかに隠したか廃棄したか。はたまた転売したか(継之助ならやりかねない気が)

謎です。

 

とにかく行方を突き止めたら素晴らしいことです。(素人考えなので専門家の皆さんすみません。)

 

こういう歴史ロマンが越後と会津に残っているのです。

様々な人がネット上でヒントを発しています。

あげます。

長岡観光その1 ガトリングガン家老…引用:こちらがそのガトリングガン(レプリカ)です。実物は会津に撤退中に沼に投棄してしまったそうです。

河井 継之助とガトリング砲…引用:アメリカNRA博物館、スプリングフィールドアーマリー博物館にはそれぞれ10種類くらいのガトリング砲が展示してあった。…
長岡藩では誰が運用の訓練をしたのか、…… 全部「謎」だ。

日本に輸入されたガトリング砲…引用:新政府軍はガトリング砲により多数の死傷者を出したものの予想以上の効果を得る事ができませんでした、機関銃は使用方法によりその殺傷効果が異なります、例えば

長岡とガトリング砲とるろ剣。 …このサイトは長岡とるろ剣とガトリング砲の関連を記したページです。…引用:ガトリング砲。。。かつて少年ジャンプで連載されていた「るろうに剣心」に出てきました。 アオーレ長岡のあたりは、たぶん昔の城下町付近かな。

 

もう一つ貴重な情報源

長岡市の河井継之助記念館の友の会の会報「峠」に地元研究家の解説が掲載されています。

PDFで収録されています。会報「峠」

6号1-4P ファブルブラント(継之助にガトリング砲を売った男) 内山弘さん

…一部引用:継之助が見込んだ砲の詳細を明らかにしたいものである。

 

13号PDF P4:ガトリング機関砲の謎 中村隆さん

…一部引用:その象徴がガトリング機関砲だと思う。

 

最後に、河井継之助の亡くなった只見町塩沢のその場所は今は湖の底で、記念館の中の家は現在の場所に移築されたものだそうです。(会津に味方した長岡藩の家老を会津の人々はずっと大事にしてきているのです。)もし、その河井継之助終焉の地のどこかに隠したのであれば現在は見つける術はありません。

 




 

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