河内→相模→越後→安芸 毛利の鉄 安芸吉田を司馬遼太郎「街道をゆく」にみる

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※郷土の歴史・伝説が巨大遺跡発見によって変わるのではないか、素人の好奇心と妄想の経過です。その8

佐橋庄や軽井川の取材は出来ますし、鎌倉は行ったことがありなんとなくわかる。

しかし安芸吉田は皆目わからない。行ったことが無いから。

関連地図(国土地理院:電子国土Webより)

akiyosida

が、知る人ぞ知る司馬遼太郎の街道をゆくシリーズ21「神戸・横浜散歩、芸備の道」で司馬さんの現地リポートが読めます。

全編司馬節、独特の気持ちの良い語り口、たまらない内容です。

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 関係ありそうなものをピックアップしました。

  1. 元就は、尼子の大軍が来襲した時に領民を全て郡山城に収容した・・・P55・・・この戦法は日本では珍しく、高句麗に似ている。
  2. 多冶比(たぢひ)という地名・川が有る・・・P62・・・古代史族のタヂヒ氏は河内の丹比を本拠としていた。・・・旧丹比郡、これは河内鋳物師の本拠、河内鋳物師は鎌倉にも柏崎にも行っています、やはり吉田にも痕跡がったようです。
  3. 下関海峡でも外国船との戦いで武士は全て逃げた。そこで騎兵隊はひろく一般から募った。藩費による市民兵も画期的だが封建社会を崩壊させた。町民農民も安芸に居たころは毛利家臣だったという意識有り。 ・・・P72・・・ここで長州人は出自を意識している、当然本家が相模や越後であったとの認識も有ったかと。
  4. 3世紀から5、6世紀にかけてタタラ衆(砂鉄製鉄集団)が大挙南朝鮮からやってきて出雲・伯耆・因幡のあたりの山中に大展開したというのが私の想像である。(朝鮮の山は全て禿げた(木を伐ったら生えてこない、日本は生える))~山の木を切って木炭をつくる者、鉄穴(かんな)流しをする者、製煉をする者、稲作をしてかれらの食料をつくるもの、家族を考えると1集団は300人~500人とう集団だったかと。・・・P103・・・興味深いページが続きます。
  5. 鉄以降、世がたけだけしくなる。人口がふえ、社会が広域化し、大ブロックを総べる権力が出現し、やがて6世紀の統一へ向かうのである。・・・P127・・・日本は鉄によって大きく動き始めた・・・・
  6. この鉄穴(かんな)の穴とは地面のくぼみではなくむしろ山の崖、地質的に老化した中国山脈は砂鉄採取につごうのいい風化した花崗岩質の斜面が多い。土砂を人工的な溝川に落し砂鉄をすくい取る。その採取作業を「鉄穴流し」という。・・・広島平野はこれにより生まれたという話もあります。

 

さて、司馬さんは鉄にもちろん注目していました。

でもどうやらその文脈から毛利氏と鉄の深い関係は見ていなかったようです。

司馬さんは越後柏崎に巨大な製鉄所が有って毛利氏が傍にいたことを知らないで亡くなりました。

それがわかっていれば東大阪市に自宅の有る司馬さん、河内の製鉄文化、大江氏、毛利氏、大窪鋳物にもふれた事でしょう。

そして、街道をゆくシリーズに「柏崎から長岡の道」ができて

  1. 河内から毛利庄を経て佐橋庄、鉄の系譜
  2. 鎌倉と佐橋庄の毛利
  3. 軽井川製鉄遺跡と東国
  4. 河内から柏崎鯨波・大久保へ鋳物の道
  5. 佐橋庄北端の長鳥に居た勝海舟の家
  6. 毛利軍が佐橋庄を経て越後長岡に攻め上がる戊申戦争、双方最新兵器による初の近代戦

などという章建てになっていたかもと思うとまことにドキドキ、残念。

司馬さんの大好きな事が凝縮されていた越後、中越。

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