長岡市と新潟市は兄弟、港で繋げてビジネスしてた、弟が出世したけどそれでいいのだ^^

このエントリーをはてなブックマークに追加

明治時代の地図を入手しました。

聞いていた長岡の「新川」を内川の分岐から入れてみました。

  1. 長岡に有った内川・新川
  2. 新潟港に同じ構造

 

1、長岡にあった新川

shinkawa

 

※地図は地理院地図電子国土Webから

スポンサードリンク

 

 

河戸は川の港です。

信濃川から引き込んだ穏やかな街中の河。

長岡商人ひいては長岡藩はこれで儲けていたわけです。

新潟湊からの船は必ずここ長岡内川の河戸に入港し、六日町・十日町方面、または越後小国(渋海川)山古志方面の物産(太田川)の小舟に載せ替えることが義務付けられました。

ホクホクの長岡藩。

 

2、新潟港に同じ構造

で、幕末直前まで長岡藩は新潟港を管理し代官を置いていました。

信濃川の船道の支配。

さらには外国との交易。

河井継之助はこのルートでガトリング砲を長岡に持ち込んだものと思われます。

いわゆる開港五港(函館・新潟・横浜・神戸・長崎)の中で唯一内陸に広大な航路をも持っていた新潟港。

新潟はほぼニューヨークにも書きましたが、ニュー長岡だったのです。

長岡の内川・新川と同じ構造が新潟市にもありました。

niigata

※地図は地理院地図電子国土Webから

青い点線は河だったところです。

新潟が先なのかもですが、昔の川の港はだいたい支流か引き込みの河に港が作られていました。

 

長岡は新潟と長岡そして魚沼・刈羽・東頸城への航路を支配していたようです。

長岡はそういう場所に出来た町なのです。

渋海川と魚野川は信濃川屈指の支流、渋海川との合流の地点が長岡。

水量も水路も確保。

そこに柿川という健やかな支流が有って、堀氏がその合流点を利用したけど牧野氏がもう少し上流(長岡)を少し工事していくつもの河戸を置くことが出来た。

そういうことなのでは?

 

スポンサードリンク

 

 

 

Print Friendly, PDF & Email

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA