※郷土の歴史・伝説が巨大遺跡発見によって変わるのではないか、素人の好奇心の経過です。その2
鎌倉時代初期、宝治合戦(1247年)で鎌倉のある相模国の毛利氏は滅びますが、越後に有った領地の毛利氏は赦され、やがて安芸の国に渡り、戦国時代に中国地方の覇者になった。
という風に聞いていまして、ふーん、運よく生き残り、何故なのかわからないが遠く安芸までいって大きくなったのか。
戊辰戦争でまた越後の柏崎に戻ってきて長岡まで攻めていったんだよなあと、そこまでしか考えが及びませんでした。
ところで、越後小国に以仁王(平家追討の号令を全国に発した)が来たという荒唐無稽な伝説が有り、信じている人はいないというのが現実でした。
しかし今世紀になって巨大製鉄所遺跡が柏崎市に発見され、以仁王が来てもおかしくないじゃん。
と、推測したのがこのブログに有る
「越後柏崎の巨大製鉄所を平氏追討令旨の以仁王(もちひとおう)はおさえた?」
です。
この中で、越後毛利氏が幕府に赦されたのは製鉄技術集団だったせいじゃないのか?
という推測を建てて終わりましたが。
どうやらそうだったようである。
毛利氏は製鉄の専門家
というのがこのブログの主旨です。
- 毛利氏の所領は越後南条と安芸の吉田、共通点は製鉄が盛んな土地
- 本拠地や他の領地は?
- 毛利氏の正体
- 鉄の商売について室町時代の輸出
1、毛利氏の所領は越後南条と安芸の吉田、共通点は製鉄が盛んな土地
軽井川の巨大製鉄遺跡のすぐ近くに毛利氏の領地(佐橋庄南条)があったことから、越後毛利氏って製鉄とかの技術集団だったのではないか、だから幕府は越後毛利氏を滅ぼすのをためらった。のではないかとというのが前回「越後柏崎の巨大製鉄所を平氏追討令旨の以仁王(もちひとおう)はおさえた?」でまとめたもの。
そして、もう一つの毛利の所領、越後で助かった毛利氏が移った場所が安芸吉田。
ここまでは「ふーんそうなのね。 でもなんでまたそんな遠くの山の中へ・・・」
「あれ、そこって中国の山の中、たたら製鉄? え?え?、たたら製鉄!」
あれれ繋がったジャン、ひょっとして。(背筋ぞくぞく)
さっそく安芸吉田付近を調べる
毛利氏と重臣井上氏について
引用・・・安芸の国境地帯に広がる当時我が国最大の一大製鉄「工業」地帯に往来する商人達の通行が多く、駒足銭の徴収権は、重要な経済的な権益だった。・・・
毛利氏、しっかりと製鉄の権益に食い込んでいます。
さらに、安芸の遺跡についてのページ
北広島の文化財
引用・・・槙ケ原製鉄遺跡 北広島町の今吉田地区は瀬戸内海に注ぐ太田川の支流の最上流域に当たり、本遺跡は山の西側斜面の中腹に位置する。・・・引用以上 (13世紀中頃の製鉄遺跡とのこと)
★毛利氏は越後と安芸、ともに製鉄地帯に領地をもって深く関係、というより幕府内で鉄鉱山担当だったのではないか。
※一般的な毛利氏の歴史を厚木市の歴史に見る。
引用・・・ 三浦氏の乱に巻き込まれなかったのが、越後佐橋庄(えちごさはしのしょう)-新潟県柏崎市-と安芸吉田庄(あきよしだのしょう)-広島県吉田町-の地頭として関東を離れていた季光の四男・経光(つねみつ)でした。幕府も毛利氏を信頼し、佐橋庄と吉田庄は取り上げられず、毛利家の血筋は絶えることがなかったのです。
建武3年(1336年)当時、経済の中心が瀬戸内海であったことなど、西の方が有利と判断し、経光の四男・時親(ときちか)が吉田庄に移り住みます。
・・・引用以上
鉄関連の記述はないようです。
2、本拠地や他の領地は?
さて、もしそうなら他の領地もそうである可能性が高い、たまたまそういうところを受け持ったのか、それとも専門集団として行ったのか。
A:相模の国、愛甲郡の本拠地は?
下記に資料がありました
ところで、もう一つ毛利の土地がありました。
B:河内加賀田郷(大阪府河内長野市加賀田)
毛利時親の時代ということで、時親は1270年ごろから毛利氏の当主になったとされていますのでその頃です。
六波羅評定衆の職に就いたため京都に勤務し、その在京料としての所領とのこと。ですので、鉄にまつわる記述はネット上で見つかりませんでした。
鉄とは関係のない在京料の土地でした。(※ 調べが進むと実は鉄関係の土地、むしろ鉄の中心地。この後に続く記事に出てきます)
3、毛利氏
以上を見てきて、感じたとおり当時の毛利氏は鉄の専門集団だったのではないでしょうか。
越後の製鉄所からたたら製鉄の中心地中国地方に進出。(逆ルートかもしれませんが)
出雲の製鉄中心地、吉田村と同じ名前の安芸の吉田に入った。きっとそれは鎌倉幕府・北条氏は側近として(宝治合戦で本家がほぼされたにもかかわらず北条氏にとって毛利氏は既に絶対欠かせない技術集団・存在だった?)鉄の知識技術流通を知る毛利を最大の産地中国山地の管理者にしたのではなかったのでしょうか。
その後、毛利氏が鉄を独占した記録。
知る蔵 毛利元就の「天下を望まず」の真意とは?~わざと天下を捨てた!
毛利領のすごいところは、さらに「鉄」まで独占していたことです。
出雲(島根県)には銀山だけでなく鉄山もたくさんありました。
「出雲の鉄」として知られたものですが、最盛期にはここだけで日本の鉄の7~8割を生産していたのです。
上記の説も、毛利氏が中国を支配したから鉄を支配したという説で有り、当初から毛利氏が鉄の専門集団であったという立場はとっていないようです。
その後の時代に
- 中国大陸への日本刀の大量輸出、しかし、日本刀は中国にほとんど残っていないようで、単なる鉄の輸出だったのではないかという説がある。大陸に最も近い産地中国毛利の濡れ手に粟の商売が目に浮かびますね。
- 長州藩の製鉄と武器製造、明治維新。毛利は明治期になるまで製鉄技術を持っており、鉄の専門家は続いていました。攘夷を敢行した毛利長州は四カ国艦隊に完璧に敗北し、鉄の近代軍、鉄の最新式銃を装備した奇兵隊を作り上げます。無敵の奇兵隊は日本を制圧してゆきます。しかし、とんでもない軍が立ちはだかります。奇兵隊が一度奪った城を奪い返される屈辱。それをやったのは越後長岡藩でした。最新式鉄器元込式ミニエ銃と世界でおそらく初めて実戦に使うことになった機関銃ガトリング砲。毛利氏が居た越後の南条の山一つ隔てた地が越後長岡です。
- その鉄の毛利氏の最初の地、越後のその後の鉄の文化。油田が各地に発見され機械産業が越後長岡に花咲きます。鉄そのものは与板・三島、三条・燕の地に技術が残ります。そしてスマートフォンのiPhoneの形状を作り出せる企業としてスティーブジョブスが世界中の業者から選んだのは燕市の業者でした。 鉄の技術は千年を生きました。
その辺の調査は次回に。
とにかく、毛利氏は鉄の専門家集団だったのです。
最後にその後の越後の毛利氏をあげて起きます。
毛利家発祥の地を探る (慈眼寺(河井継之助談判の地)から
佐橋荘は柏崎市の北東部で、信越線の北条駅、安田駅として名前を残している。北条駅の近くの南条の小高い丘に佐橋神社があり、境内は越後毛利氏や長州毛利氏の祖、毛利経光の南条館跡と伝えられている。
毛利氏って、そうっだったのかもですよね。
続きの調査はまた今度