からむしは、かなり重要なものだった、に、違いないと思っていたのですが、やはりそのようです。
ネット上でからむしを調べたら以下の点が見えてきました。
- このブログで再三取り上げてきた鎌倉幕府のナンバー2、守護地頭や征夷大将軍という統治の仕組みを作ったといわれる大江広元が現柏崎市の佐橋庄を領地にした理由は製鉄とからむしではないかという推測の強化
- 同じくこのブログの信濃川水運・河戸と小千谷・柏崎間の陸路薬師峠と広田峠の重要性、塚山宿長谷川邸の重要性がより鮮明に
- 塩沢の商人鈴木牧之の北越雪譜に再三にわたって遠く塚山付近の描写が出て来た訳は塩沢の反物を関西に売る際のルートであったから、情報が豊富だったのかも。
- 信濃川の水運を支配した長岡藩領を通らない塚山ルート。しかしその地域で唯一古志郡、長岡藩領の岩野集落があって片貝ルートを作ったのではないかという事
- 越後に来た渤海の使節団は製鉄技術とカラムシを伝えたのでは???
いつの時代に誰が何を支配し、何をなしたか。
それらはどの経路で動いたのか?
・・・なんかカラムシを紐解くと日本の歴史が越後の特殊な力が見えてきそうな感じです。
大事な情報の有るページと引用・コメント
雪国越後十日町 からむし (有限会社 ネオ昭和)
- ・・・越後布の素材は、カラムシ (苧麻-ちょま) の靱皮(じんび)繊維を糸に績いだアオソ(青苧)を織りあげたもので正倉院所蔵の墨書銘のある越後布も麻布・・・
- ・・・「越後風俗志」には “苧麻は、古老の言に、上古、黒姫山におこり、頸城、魚沼、中郡蒲原の山あたりに皆産す。なかんずく妻あり(有)、さばし谷をもって名産とせり” と書かれ、妻有地方と鯖石(さばいし)谷 (柏崎市の鯖石川中流域) などが生産の中心地であったと・・・
- ・・・素材の青苧(あおそ)という糸のほうが、各地の織物の原料として京都や大阪方面に出荷され、莫大な産額をあげていた。・・・
- 越後の青苧座は公家の三条西家が本所
- 魚沼地方の青苧は、信濃川と魚野川の舟便で小千谷に集荷され、そこから馬に積んで柏崎か直江津へ出た。ここから専用の “苧船(おぶね)” によって越前の敦賀か小浜に陸揚げされ、陸路琵琶湖へ出て再び舟で大津へ運び、京都をへて大阪の天王寺の青苧商人の手へ・・・
鯖石川中流域が生産の中心地って。その中流域って佐橋庄そのものなんですが。
そこを大江広元が支配し、ひょっとすると鎌倉幕府の運営資金はそこからなのかもです。朝廷から越後国の支配権を認められたわけで、越後は当時の日本で最も重要な地のひとつだったと思います。鉄はいつまでも(数百年間同じ軽井川辺り)生産されるは、公家の垂涎カラムシはあるは。鉄と木炭の供給、カラムシの生産、そして流通がシステム化されていたのでしょう。
で、その荘園の持ち主と実際に統治する人が居たわけで、柏崎市史 上巻に以下の記載
P677—佐橋庄・・・本家が六条院・領家が一条院女房右衛門佐局、佐橋庄の成立は1086~1129ころか。
P678・679—荘官と地頭、毛利氏が佐橋庄の地頭、毛利氏は鎌倉公文所の別当の大江広元の息子が始祖。
土地の所有者と管理人・現地管理人、複雑な支配体制。大江氏が地頭制度の確立で入ったとみるのが妥当では?
カラムシと製鉄と商い・流通、あらゆる要素が入り組み、しかも莫大な利益を上げる佐橋庄、その領地にいかにうまく地頭を適応させられるか。佐橋でお試し。
佐橋庄を大江氏が治めて、鎌倉幕府は成立したのではないかと想像は好き勝手に膨らみます。
新潟県内の主要な場所を地図にまとめてみました。
上の続き(いろいろ重複)・・・
佐橋庄・南條館は鎌倉幕府のナンバー2と言われ、守護地頭や征夷大将軍を提言した大江広元の所領かつ政務した場所と言われています。東日本最大の製鉄所軽井川と日本最高級の布の産地佐橋庄を所領としたのです。儲かったでしょうね。
地図はすべて国土地理院、地理院地図:電子国土Webを使わせていただいています。
カラムシ (石黒の昔の暮らし)
柏崎市は平成19年に柏崎七街道観光資源価値向上事業の中に石黒地区を「からむし街道」と指定し、毎年カラムシ街道イベントが行われている。
柏崎市はここまでは解っているですよね。でもそのカラムシこそが日本を動かす存在であった事、勇気をもって話しても良いのでは^^
中世の越後国は日本一のカラムシの産地だったため、戦国大名として有名な上杉謙信は衣類の原料として青苧座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げた。新潟県の魚沼地方で江戸時代から織られていた伝統的な織物、越後縮はこれで織られていた。また上杉氏の転封先であった出羽国米沢藩では藩の収入源のひとつであった。
流通経路地図
江戸への出荷は六日町経由でしょうが、巨大な消費地京都や大阪へは小千谷からの峠越えが必要だったのです。(それから柏崎か直江津へ)
小千谷の河戸(川の港)から山谷を通り薬師峠を越え三島郡と刈羽郡の境をずっと歩く薬師峠~広田峠(塚山峠含む)を超え北条に達する陸路は宝の道ですね。別名銀山街道とも呼ばれ、奥只見銀山平の銀を運んだとも言われ、銀に匹敵するようなカラムシを運んだ道でもあった。
何故そこかというと最短ルートの小国の山は高すぎて馬ではきつかったのかもです。
おそらくそれでしょう。薬師峠・広田峠が最も低く穏やかな尾根づたいの峠。
越後上布(Wikipedia)
越後上布(えちごじょうふ)は、現在では新潟県南魚沼市、小千谷市を中心に生産される、平織の麻織物。古くは魚沼から頚城、古志の地域で広く作られていた。縮織のものは小千谷縮、越後縮と言う。
2009年にはユネスコの無形文化遺産保護条約「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」にも登録された。
731年(天平3年)に同国から朝廷に献上された「越布」が正倉院に収められている。 上布の最高級品であり「東の越後、西の宮古」と呼ばれる日本を代表する織物のひとつ。
鎌倉時代には、『吾妻鏡』に1192年(建久3年)に征夷大将軍就任を祝う勅使への贈り物に「越後布」を贈ったという記録が残る。(鎌倉幕府の成立はもっと前という現在の認識ですが一昔前は1192(いいくにつくろう鎌倉幕府)が幕府誕生の年とされていました。幕府って後になって気づくほど緩やかに権限を奪っていったようです。
大江広元の手腕かもですね。(ずっと朝廷の下級貴族だったし、ね、)
1523年(大永3年)には、苧船が若狭国で16艘拿捕されており、苧麻を運ぶための専用船が仕立てられていたこともわかる。
元禄頃には諸大名からの御用縮布の注文がなされるようになる。あまりに贅沢だということで天保年間には奢多品禁止令の対象にもなった。
とにかく最高級品であったことは間違いないところで、権力の象徴でもあったことでしょう。
江戸時代初期には元町(川岸町)の信濃川の近くにあった・・・宝暦13年には小千谷組・塩沢組・六日町組・浦佐組・小出島組を支配範囲にしていた。
陣屋は河戸を支配していたのでしょうね。
小千谷とは何か、どのように成立・発展したのか、やはり河戸と峠の組み合わせ、そして政治であると見るべきかと。
江戸時代長岡藩が現新潟港も治め、信濃川の水運は長岡藩のものであり、新潟から来た船は長岡の柿川にいくつも有った河戸で積み替えられ十日町や六日町に向かった。逆ルートもしかり。
長岡藩は莫大な利益をあげていたはず。
しかし、小千谷で陸揚げ、山谷を通り薬師峠を超え塚山宿から広田峠と進めば長岡藩に税を払う必要もない。
そういうルートのような気もします。
・・・三条西家当主・・・ 越後上杉氏とは同氏の京都駐在家臣・神余実綱らを通じて折衝する一方で、坂本では越後商人の荷物を差し押さえ、小浜では若狭守護・武田氏と結び、「越後船」の抑留など強硬な手段も・・・
様々に複雑な、それでも法治国家だったんですね。
建前大事。
大変だったんですね、高く売れるカラムシ、越後上布。
で、最後にカラムシは何処から来たのか?
様々なページで
「カラムシは、元々は外来で、日本の気候の合う土地で定着した植物では」と言われています。
こういうものがあります。
柏崎市の歴史(柏崎市史)
787年(奈良時代) 越後国に命じて渤海使に船1艘・□(=柁)師・挾杪・水手を給い、帰国させる。 (渤海国は朝鮮北部・満州・沿海州に跨る国家。韃靼族により起こされた。韃靼(タタール)=たたら?)
渤海国より越後に渤海使が来ていたわけで。タタール製鉄(たたら製鉄)とカラムシを持ってきていたのかも?越後が東日本最大の製鉄所のある国だったし、カラムシは越後の特産だったし。
どうなんでしょ
みんな地域の魅力づくりにドンピシャだと思うのですが・・・