「お万茶屋物語」魚沼街道(柏崎-小千谷)美人の茶屋の幕末から明治の移り変わり

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越後の魚沼街道は内陸の三国街道と日本海沿いの北国街道を結ぶ街道で、小千谷と柏崎の間にある街道である。

それが紛らわしいことに魚沼街道には他にいくつもの名前がある。

  • 柏崎の人は小千谷へ行く街道ということで、小千谷街道と呼び(おそらく魚沼への道は他にもあり、この街道は小千谷行きとピンポイントで名づけたものと)
  • 小千谷や魚沼の人は昔には銀を高田へ運んだ街道なので高田街道や銀山街道と呼んでいた。

ということで魚沼街道は小千谷街道・高田街道・銀山街道と4つの名前が有るのだ。

 (もう、最初何が何やらわかんなかったな。どの道が銀山街道なんじゃおい、やっぱこれでいいの?同じじゃねええかよ、ほんとなの?他でも調べてみるべ、わ、ほんとだし。)

この物語の渋海川流域塚野山では魚沼街道と呼んでいた。

 (魚沼のお得意さん、峠運搬手間賃や宿泊もしてくれたお得意さんの来る街道という意味の予感)

 chizu1 (クリックで拡大)

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その魚沼街道の途中に山並み(山脈)が二つあり、その山並みの間を渋海川が南から北に流れていて川に沿うように塚野山宿がある。

とにかく二つの山並みなので峠が二つあった。

塚野山から見て東側、山谷と小千谷への峠は薬師峠、塚野山から見て西側、北条と柏崎への峠は広田峠という。

どちらの峠も峠までの道が長く緩やかで馬も荷車も通れる道となった。それが一番の理由で立派な街道となった。

 (実際に両峠とも歩いてみたが、きつい勾配はほとんど無し、これはもう快適るんるん)

柏崎と小千谷・魚沼を結ぶ道としてほかにもいくつか峠道があるが山が高く急峻だったり道が狭かったりで輸送に適さず、馬も荷車も通れる峠で最も早く柏崎小千谷間を歩ける道が薬師峠と広田峠を通る魚沼街道なのである。

戦国時代には春日山から上杉謙信の大軍もここを越えて関東に進軍した。

 (北条が約束破ったとか、毎度の緊急の出陣の際は別の険しい道を使っていたそうです。)

 

さて、その歩きやすい街道で何を運んでいたのか。

最も大事なものは魚沼の特産品で古くは最高級の繊維カラムシ、この江戸期ではそのカラムシを織ったこれまた最高級品の越後上布がこの魚沼街道を通って京・大阪、そして江戸へも送られた。江戸へは三国峠等の方が近いが大量輸送には向いていないようで、魚沼街道から高田を経て信州経由で上州、江戸へと運ばれたようである。

信越本線と似た経路だ、馬や荷車が通れる道の条件は鉄道敷設の条件と似ていた。

そして、先にも書いたように渋海川には船の道が有り、柏崎から長岡に荷を運ぶには塚野山で船に積み替え渋海川を下り信濃川にでると直ぐに長岡ということで、塚野山はまことに物流に便利な宿場町であった。

そのような理由で往来が多い街道であったので両峠共に茶屋が有った。

薬師峠と広田峠の間は街道自体が三島郡(さんとうぐん)と刈羽郡(かりわぐん)の境をなしており、その為、街道を守り整備するのも両方の郡で行われた。

茶屋も両郡で営業していて、薬師峠は三島郡側が茶屋を営み、広田峠は逆に刈羽郡側が茶屋を設け菅沼集落の者が経営していた。

  (そういう両立した関係なんだろうなと思いつつ調べたらまさに両方の郡で茶屋を持ち合っていて棲み分けが出来ているあたりの政治的差配すばらし、調停や裁判こそ武士の務め、守護地頭なのだ)

 

この物語は広田峠の茶屋の物語である。

 

広田峠の街道の南側の谷筋には袴沢川が流れている。袴沢川は菅沼集落の奥から流れ始め、袴沢集落を過ぎると直ぐに塚野山で渋海川に合流する川であり、魚沼街道とほぼ平行に流れている川だ。

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広田峠の茶屋は菅沼の六衛門が営んでおり、妻のセンと共に日々茶屋に通っていた。

近くに水場があるが茶屋からはかなり下らないとならない、だから茶屋に行く際に菅沼からついでにと毎朝水を運んだ。

忙しい農繁期になると六衛門は水だけ運んで直ぐに田んぼ仕事に行ってしまう。

セン一人だけというのは物騒だという事で六衛門の手がない時にはのセンの実家隣村袴沢の清八家に手伝ってもらった。

清八はいわゆる屋号である。センの兄の次郎とその女房のサク、長男の清太、長女の於万、そしてじじばばの六人家族である。

 

その農繁期には清八家の娘於万も母親サクに連れられ茶屋を手伝うようになった。

於万はそこでセンおばさんから様々な旅人の話を聞いた。

 

於万の最も好きな話は塩沢の商人の話である。

 センおばさんは語る。

 

有る時、大きな荷車と馬1頭と立派な旅姿の老人が茶屋にやってきての。

こう言ったがあて

「いやあ、あんたがおセンさんかえ」

「いらっしゃいませ、どちらさんでしょうかの」

おら、知らない人らすけ聞いたこて。

「塩沢の鈴木と言いますて、いつも若いもんが世話になっています。」

そうするとその鈴木さんのすぐ脇から見た事のある若者がでてきて、それがよく茶屋に寄ってくれる塩沢の問屋の手代正三だったがあて。

「あら、正三さん、あんたのご主人様け」おら、たまげて聞いたこて。

「センさん、そうさうちのご主人だよ。例の物出しておくれよ」正三がにこにこしながら言う。

 

そう言うすけ、おらはさっそく漬物を出した。いっつも正三が食べている漬物。

「おお、これだな」そういうと鈴木は二キレも一度に口の中に入れお茶を飲んだがあて。

「ああ、たまんないな、うまい、おセンさん、うまいよ。正三の自慢の通りだ。」

なんでも正三は帰るたびに広田峠の茶屋の漬物の話をしていたそうだ。

いやあ、こんときはおらうれしかったの。

 

そうしての、ご主人は好奇心が旺盛でいろいろな事を聞いて来たがあて

 

冬の峠での雪倒れの話、渋海川が凍るようになった時の話とかいろいろとしたこて。

 そうすっとそのご主人はおらの話を紙に書いてたがあて。

 

そうしてあるときそのその後主人がまた茶屋に来ての、1冊の本をおれにくれたがあて。

「おセンさんのおかげでいい本になったよ。」

その本は江戸で売れに売れたという「北越雪譜」という本だったがあて。

 

その中の3つのお話しはおらや塚野山の人に聞いて書いたんだそうだ。

ほらここに書いてあるろ。

 

そうやって於万はおセンから自慢そうに本を見せてもらうのだった。

 

 

おセンおばさんは読み書きができた。

北条の南、八石山の麓、南条の三余堂という塾で学んだ兄から手ほどきを受け、読み書きのほかさまざまな学問に通じていた。

学問が好きな女だった。

 

於万が育ち、やはり学びたいと思ったころには三余堂の本家ともいうべき片貝の朝陽館が耕読堂という名前になって広く生徒を受け入れていた。塚野山や千谷沢から多くの男が学びに行った。於万は父から学んだ、おセンの兄でおセンの先生が於万の父だ、何でも知っている、於万は父に学んだ。

おセンと於万は同じ先生を持った。

 

そんなある年、長州毛利軍が峠にやってくることになった。

つづく

 
—以下、関連本やグッズ—

 三国街道

 北国街道

 

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「お万茶屋物語」魚沼街道(柏崎-小千谷)美人の茶屋の幕末から明治の移り変わり」への2件のフィードバック

  1. こんばんは、こしくわさん。
    これは、素晴らしい。
    よくぞここまで調べましたね。
    途中で北越雪譜だなー、と思いましたが、これからの続きも読みます。

    by あの峠を馬も歩いたんでしょうか 山羊乳

    • 越路町史・小国町史や北条町史に、峠越えの為に両宿場に随時何頭の馬を用意しておくか決めてあったということが書かれています。
      戊辰戦争時に西軍(官軍)の命により馬と人足を何人出したか名前まで記録に残されています。

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