米百俵が新潟県の長岡市では有名ですが、長岡市を含めた新潟県の中央部には古い教育の歴史がありました。
柏崎市から小千谷市・片貝そして燕市吉田まで競っていたようで明治政府から北越の文教を振興した「私学の双璧」と認められた塾がこの地域内にあります。三餘堂と長善館がそれです。
米百俵の国漢学校より小千谷小学校の創立の方が早いとか(小千谷小学校は日本で最初の小学校)、
この年表を見るとこの地域の教育熱が戊辰戦争後の長岡藩を動かして米百俵は当たり前のように行われた気にもなります。
※写真は片貝浄照寺
その他のできごとも含めて年表にしてみます。
- 1779年… 朝陽館(小千谷市片貝): 朝陽館(ちょうようかん)は、安永8年(1779年)に開塾した一村塾
- 1782年…天明の大飢饉
- 1783年…アメリカ独立戦争終結パリ条約
- 1789年…フランス革命バスティーユ襲撃
- 1800年…伊能忠敬、蝦夷地を測量
- 1808年…崇徳館(そうとくかん 長岡市): 長岡藩校
- 1820年…三餘堂(柏崎市南条) :文政二年(一八一九)郷里に戻り、翌年、学塾をこの地に開き、三餘堂(さんよどう)と名付けた。
- 1825年…異国船打払令を出す
- 1833年…長善館(ちょうぜんかん 燕市吉田): 長善館は、江戸時代後期、越後長岡藩粟生津村(維新後新潟県西蒲原郡粟生津村、現燕市)に存在した私塾 明治22年(1889年)8月の文部省官報では、三餘堂と共に北越の「私学の双璧」とされている。医学の長谷川泰もここで勉強している。
- 1837年…大塩平八郎の乱
- 1840年…アヘン戦争始まる(1842年まで)
- 1842年…耕読堂(こうどくどう 小千谷市片貝): 朝陽館は天保13年(1842年)あらためて塾舎を建て、耕読堂(こうどくどう)と塾名を改めた
- 1853年…ペリーが浦賀に来航
- 1857年…吉田松陰が松下村塾を引き継ぐ。(長州)
- 1858年…慶應義塾開く 福沢諭吉が中津藩江戸藩邸で開いた蘭学塾
- 1860年…正徳館(しょうとくかん 長岡市与板): 正徳館(万延元年)に正徳館(しょうとくかん)の名称で藩校が創設された。
- 1863年…下関事件、薩英戦争
- 1868年…戊辰戦争 7月25日長岡城二度目の落城
- 1868年…9月明治改元
- 1868年…小千谷小学校(おぢやしょうがっこう 小千谷市): 小千谷小学校(明治元年)10月1日(実質的には慶応4年8月16日)、下タ町の五智院に山本比呂伎によって設立され現在
- 1868年…井上円了片貝の石黒塾(石黒忠悳)で学び始める。
- 1869年…国漢学校(こくかんがっこう 長岡市 米百俵の故事) 国漢学校は 1869(明治2)年に 昌福寺の本堂を借りて開校し、明治3年6月15日(1870年7月13日)に国漢学校の新校舎が坂之上町(現大手通2丁目)に開校した(現在の市立阪之上小学校のルーツでもある)。
- 1871年 廃藩置県
- 1871年…ドイツ統一
- 1874年…片貝小学校開校(明治7年): 私塾、耕読堂を購入片貝小学校となる。
簡易地図
国土地理院 地理院地図を利用しています。
越後片貝
片貝の朝陽館は柏崎南条の三餘堂設立へと結びつき、時を経て耕読堂となり、そして片貝小学校になった訳でこの付近の教育にとって片貝の果たした役割は大きいですね。さらに長善館も片貝の医師惕軒(朝陽館設立仲間の家の出)が婿入りし二代目となっている。明治政府の認める三餘堂と長善館ともに片貝の影響を受けている不思議。
もともとは片貝の浄照寺の境内裏手(山側)にあったそうで、片貝小学校は今も浄照寺の裏手にあります。この頃の東本願寺のお寺様の教育熱は凄いですね。やがて三条別院の学校は野口英世へと結びついて行きます。 :血脇守之助が真宗大谷派三条別院に行ったから後に野口英世と出会うことに越後の教育は深いですね。(全国各地に同じような話はあると思いますが。)