日本の土木建築の始祖?行基と弘法大使空海はなんと二人とも小千谷・魚沼街道に来ていたらしい。

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魚沼街道(銀山街道・高田街道・小千谷街道)と信濃川の小千谷港を歩いていて、真言宗の寺院が小千谷港と魚沼街道に集中していることから強引に考えた土木建築に秀でた行基集団と真言宗寺院が大昔の段階で既に小千谷で頑張っていたのではないかと強引に考えたのが「行基集団と空海真言宗寺院が1,300年前に国重要小千谷港と魚沼街道を作り・維持してきたという強引説

このなかでも取り上げ引用したのが下記ページからの引用。

エンサイクロメディア空海「068 行基の残した港湾の水利ディベロップメント」

天長5年(828)、嵯峨同様に空海と親交をもっていた淳和天皇は、空海をこの泊の造船瀬所別当に任じ、港湾整備の指導監督にあたらせる。

唐に留学した際中国の土木技術を修得した僧(例えば道昭)や、そういう僧から直接手ほどきを受けた僧(例えば行基)がいたし、仏教僧の必修として「五明」を教えていて、そのなかに工芸・技術・天文暦・占術を学ぶ「工巧明」があった。

 

で、先日図書館で小千谷の事を調べていたら「年表小千谷」の中にこんな記述があった。

707  五智院、天台宗として山寺に創建

712 行基、千谷川真福寺を創立

735 僧行基が神木で不動明王を刻み岩沢山不動寺を創建

809 空海が船岡観音像を刻む(住み込み、布教のほかに堤の工事なども見ていたとか記述有り)

810 空海巡錫、岩沢不動寺の勝隆に法脈を伝えた

 

なんと!日本の土木建築の始祖の人達の中でも重要人物と思われる(素人考え)行基と弘法大使空海がともに小千谷に来ていた!!!!

これ、凄いんじゃでないでしょか?

 

再度地図を掲載:小千谷港及びそこで信濃川と合流する湯殿川河口流域の地図です(※背景の地図は国土地理院地理院地図を利用させていただいています。)




 

行基

行基が創建した真福寺はまさに魚沼街道の始点近くの高台にあります。(上記地図では最も上)

↓丘の上にあります。

↓薬師峠方面が見渡せます。住宅が無ければ全て見えたでしょう。

ここから薬師峠に繋がる街道が全て見えたと思われ、また信濃川も見えたものと思われます。街道の管理には最高の場所ですね。行基はそういう場所を選んだのでしょう。貴重な事だと思うのですが、小千谷市史のどこにもそういう記述は見つけられませんでした。

いつもの勝手な想像ですと

 

空海

空海がやはり来ている、それほどの土地だった小千谷。

やはり小千谷港・街道に関わったのでしょう、空海が彫った船岡観音像は小千谷市の真言宗慈眼寺に有ります。(上記地図の左下)

素人考えで以前書いた 行基集団→真言宗 という土木建築技術の引継があったのではないでしょうか。

行基が築いてからほぼ100年後に空海が小千谷にやってきます。

そして空海から約1000年後、行基や空海が整備したと思われる諸街道から薩長が攻めてきて、その慈眼寺にて長岡藩河井継之助と会談、戊辰戦争でも屈指の激戦、北越戦争が始まります。

 

岩沢不動寺

ここは、行基が開き空海もやって来た何とも凄い寺院なんですね。

でも、検索してもどこにもそれを見つけることは有りません。

小千谷市史にも詳しくなかったと思います。

今度行ってみます。

 

思いがけず、行基と空海という新しい展開になってきました。

 

 

行基と空海という巨人がやって来た小千谷、日本史における小千谷の地の重要性は非常に高いものだったように思います。

しかし、鉄道をうまく利用できずに交通の要衝の地位は失い、様々な歴史の流れで近代産業化も遅れたとの事。(小千谷市史より)

行基の事も空海の事も魚沼街道の事も今の小千谷にはあまり重要な事ではないように見えるのが少し残念です。




 

 

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